ドライブの楽しみ方
2008・7・25
私たちは、よくドライブ旅行にでかける。先日も、北軽井沢・野反湖をドライブ旅行に
いったが、その時も、信号機の下に掲示されている地名の読み方などを話し合う、
何と読むかである。

南アルプス市には、「百々」である、カナもふってなく、ローマ字でも書いてなかった
のでわからなかったが、多分「もも」と読むのであろう。「ひゃくもも」「ひゃくひゃく」という
意見もでたが、方言で読む場合もあるのでとんでもない読み方のときがある。
「百々」は、のちに郵便番号で調べてみると「ドウドウ」と読むそうである、これは読めない!
びっくりである。

また、八ヶ岳のふもと国道141号線小海町に「馬流」という掲示がでてきた。「ばりゅう」
だろうか「うまながれ」だろうかとおもったが、ローマ字で「まながし」とあった。
これは、まあまあ読めますね。

ところが、野反湖近くでは「六合村」とでてきた。まともに読めば「ろくごうむら」であるが
驚いた、これは読めない「くにむら」と読むという。草津温泉のすぐ隣村である。
なぜ、こうのような読み方なのか関心がでてきた、あとで調べてみよう。

それから、ガソリンスタンドのガソリン価格である。ここのところのガソリン高騰ではあるが、
その価格をみていても、また楽しいのである。地域によって、段々と価格が変わっていく。
やはり観光地は高めのようである、最高はリッター185円、最安値は172円だった。
私は、軽井沢宇佐美で176円で満タンにした。

こんなことで、ドライブ旅行を夫婦で楽しんでいる。
10月には、四国一周のドライブ旅行に行こうかと計画している。

以下、六合村のホームページから引用させてもらいました。

  「六合」を「くに」と読む由来
古事記上巻序文に「乾符を握って六合を総べ」、日本書紀神武天皇即位のくだりに
「六合を兼ねて以って都を開き」とあり、「六合」とは天地と東西南北、すなわち支配の
及ぶ範囲「」を表すことから、「六合」を「くに」と読んでいる。 なお、「古事記に「天地
四方を以って六合と為す」という文が登場することから「六合」を「くに」と読む」という由来
は俗説であり、古事記には「天地四方を以って六合と為す」という文はない。

六合村の歴史
 六合村には古くから人が住んでいたことが、広池遺跡(縄文時代)、熊倉遺跡(平安時代)
および各地の出土品から推定されます。
 鎌倉時代初期には、西吾妻に狩り訪れた源頼朝が、花敷温泉を発見したと伝えられてい
ます。また、この狩りの案内をした細野御殿介が、草津温泉を発見した功績で「湯本」の姓を
賜ったと伝えられています。湯本氏は戦国時代から江戸時代初期にかけて、現在の六合村
と草津町周辺を支配する有力者になっていきます。
 戦国時代末期になると、現在の六合村を含む西吾妻周辺は武田氏配下の真田幸隆の支配
下に入ります。その後幸隆の子昌幸の統治を経て、豊臣秀吉の小田原征伐後、沼田藩を与
えられた昌幸の長男信幸(信之)の統治に入ります。
 江戸時代になると、沼田藩5代藩主信利が改易され、幕府の直轄地になります。その後一部
地域は分割により旗本領になり、明治にいたります。幕末には開国を唱えた蘭学者高野長英が、
一時赤岩に隠れ住んだと伝えられています。また、信州松代藩の佐久間象山が、資源の調査
のために入山を訪れています。
 明治になると、廃藩置県により岩鼻県、群馬県、熊谷県を経て、明治9年以降は群馬県となり
ます。
 明治22年には自治制施行に伴い、草津村と称し役場を小雨に置きましたが、明治33年(1900年)
7月1日草津村を廃し、入山、生須、小雨、太子、日影、赤岩の6大字をもって「六合村」と称し
ます。平成12年(2000年)には100歳を迎えました。

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