鎌田潤一さんからの手紙
2007・2・26
一昨年(H17・12・2付)、私の父である肇の従兄弟にあたる「鎌田潤一」さんからきた手紙
である。
潤一さんの息子さんが私のHPをたまたまみてくれて、潤一さんの名前や写真が出ていた
ので、父親である潤一さんに、そのHPをコピーして届けてくれたということである。
息子さんは、神奈川県藤沢市に住まわれているということであった。

その手紙の内容は、佐々木家のことで私の知らないこともあって凄く興味深いものであった。

冠省、久しくお会いする機会に恵まれず残念に思っています。お元気で諸々のことに活躍され
ていることと存じます。
私は、毎年の定期検診で何件かのクレームはつくものの75歳(来年2月には76歳)の年齢
の割合には元気で色々の事情で横須賀と次男の住む仙台の近くの名取、両方の自宅を行き来
する生活を続けています。所で、藤沢に住む私の長男(鎌田敦志45歳)が今年の春頃に、パソ
コンをいじっていて、偶然に貴兄のホームページを発見、びっくりして知らせて来ました。
貴兄のことは、話していなかったのですが、肇さん出征の時の写真を見て、見たことがある、私
に似た子供がいる、内容を見たら、私の名前を発見、全文を印刷して届けて来た次第です。

残念乍ら私はパソコンが不得手で手紙をさし上げようと思いながらつい遅くなり、年末近くになった
わけです。私は貴兄のご一家のことについて知っているのは、昔々のことや、貴兄の幼少時代の
、しかも断片的にだけですが貴兄の記憶力の正確さには驚きました。
私の知っていることと殆んど一致しているので改めてお知らせすることは少ないのですが、私の
知っていることをお知らせするので参考にして下さい。(別紙に)

ただ資料などなく記憶を頼りに書いたので間違いもあると思いますがご承知おき下さい。
私も終戦直後の焼け野原の東京で貧乏な学生生活を送り、人には言えない苦労をしました。
経済的にも又時間的にもよくやりくりできたものと思います。
併し貴兄のホームページを拝見すると私の何倍もご苦労された様ですが、若い頃の困難を克服さ
れて今の幸せな家庭を築き上げこと、心から敬服しています。

どうか、ご家族のためにも健康に留意されお互いに長生きしたいものと思います。
久闊を埋める様な機会に恵まれる様祈っています。
                                 不一
     平成17年12月2日
              鎌田 潤一
                             佐々木 武 様

<別紙>
1、佐々木典さんについて 
<武の祖父>
・盛岡中学校白堊同窓会名簿、明治29年次(10期、通算12回) 明治24年入学、29年卒業
 のクラスに、
 佐々木 典、陸軍少尉、本籍・盛岡市上田小路23
 と出ていたので、私の知っていることを同窓会事務局に連絡し、次のように訂正してもらいました。
  陸軍幼年学校、士官学校卒、陸軍大尉 (昭10頃逝去)
   (遺族欄には、貴兄のお名前と住所)
・盛中2年の時に陸軍幼年学校に進学、陸軍士官学校を卒業された。(同期生に荒木貞夫大将<陸
 軍大臣>がおり親友だったと千代子さんに聞いた。)もし、健在だったら将官になったのは間違いな
 い位の人材だったらしい。
・陸軍中尉で第8師団第5連隊勤務中に、明治34年八甲田山の雪中行軍遭難事件が発生、救助隊
 の指揮官の一人として出動。
    津軽書房刊の「雪中行軍始末」に実名で出ている。(本は横須賀の自宅にあります)
・第5連隊は日露戦争に出征、第8師団(立見尚文師団長)は第2軍の中核として奉天会戦に参戦、
 その前哨戦の黒溝台戦で全滅に近い損害を出しながら死守、このことが奉天会戦勝利の要因とされ
 ている。 (歴史街道<PHP刊>4月号に詳しい) 立見尚文については11月号にも
 盛岡では、黒溝台戦の1月29日を黒溝台記念日として永く記憶し、私の在学していた時にも盛岡市
 内の大学高専・中学全校が盛岡駐屯の陸軍部隊に合同演習をしていた。
 5連隊の雪中行軍生き残りの将兵の殆んどは黒溝台戦で戦死したといわれているが、典さんは奇跡
 的に生還したものの病を得て大尉で退官して、その後七戸町で果樹園を経営したのもと思われる。

 以上は私の父、千代子さんから聞いた話、
 父は肇さんの出征の時、見送りの人に、典さんのことや、戦歴を交えて、親族代表の挨拶をしたのを
 覚えている。

2、亀代さんについて 
<武の祖母>
・鎌田勇次郎(慶応元年生れ)、フク(慶応3年生れ)の長女
  弟妹は ・次女  もも代 ? (幼時に親戚の寺?の養女に)亡
       ・三女  あん  ? (大宮 安子、盛岡)亡
       ・四女  すみ、M30生れ(江口 澄、東京)亡
       ・五女  すえ、M32生れ(佐々木 すえ、盛岡)亡
       ・六女  とく、M34生れ (高橋 トク、岩手県月目沢町)
       ・長男  耕一、M36生れ
       ・次男  耕二、M38生れ(鎌田 耕二、盛岡)亡、長女・武居玲子
       ・七女  おさめ、M40生れ(上田 納、盛岡)亡、長男・恭敬

  トクさん(104歳)のみ生存、私の父母は(93、91)、亀代さんを最高齢として皆さん、80歳以上、
  長生きの家系?
・勇次郎は旧南部藩士の一條家の生れ、幼時に後継者のなかった同藩鎌田家の養子となった。
 初期の岩手師範を卒業、小学校教師となり20代で校長になる。岩手郡内を転勤し(寺田村、松尾村、
 渋民村、玉山村など)、私の父tが生れてのは玉山村日ノ戸(岩洞湖のふもと)石川啄木の生家、常光寺
 の隣だったとのこと。
 教育者のためか、長男、長女だけでも進学させたいと思ったのか、亀代さんは盛岡高女、私の父耕一は
 盛岡中学に進学している。耕二さんは鉄道員養成所、他の娘達は高等科。盛岡高女は明治30年開校、
 その頃は高等科から進学したのが普通だったので、亀代さんは明治35年入学?40年卒業と思われる。
 (当時、田舎住まいで進学したのは稀有のことだった)

 卒業後、小学校教師になったらしく私の所にあった、松尾村の松野小学校100年誌に「校長先生はとても
 厳しい先生だったが、娘さんが担任でとてもやさしかった、奥さんが裁縫を教えていた」と思い出が書かれ
 てあったことを見たことがある。

 典さんとの結婚の経緯は不明だが旧南部藩士同士の見合結婚と推定される。典さんが陸軍を退官された
 後のことでしょう。

3、肇さんについて 
<武の父>
・昭和5年2月、私が盛岡市上田の祖父勇次郎宅で生まれた時、肇さんは盛岡中学の3年生(15歳)で祖父
 宅に下宿していた。私の手許に制服に乗馬ズボンをはいた肇さんの写真がある。(当時、盛中には乗馬部
 があったらしい、私の時はなかった)
・昭和13年肇さん出征の時の写真
 すみ、おさめ、すみの子供、勝弘、光子、後列肇さんの後方に私の父耕一(この時35歳)、私は小学校3年
 8歳、とてもなつかし、私にとっても宝物です。

・肇さんは盛岡中学、昭和7年卒(白堊会名簿にのこっている)上京して就職と同時に、東京工業大学付属高等
 工業学校に進学された。(夜学)ダイヤモンド職員録に藤倉化成の欄に樹脂部長、学歴・東京工大専とのって
 いたのを見た。

・中学・高工の時に幹部候補生の資格をとっていた様で予備士官学校を経て(原隊は典さんと同じ5連隊)少尉
 で北支に出征。昭和16年12月太平洋戦争劈頭(へきとう)<事の一番はじめ>中尉でフイリッピン、リンガエ
 ン湾上陸作戦に参加、コレヒドール要塞攻略戦で負傷され暫く陸軍病院にいた後、大尉で復員されたと聞いて
 いる。もし、負傷されなかったら、更に南方に行ったか、又はレイテ戦?でどうなったか、何れにしても生還は
 難しかったかもしれない。再徴兵されなかったことも含めて幸運だったというべきでしょう。

  *この写真撮影の後、「肇さんの父は〜〜」と典さんの戦歴を見送りの人に紹介したのを覚えている。

4、トシ子さんについて 
<武の叔母>
・私の父が紹介して東横高女に進学したと聞いている。算盤の名手で在学中に1級を取得(めったにないそうで
 す)、見込まれて三菱重工に就職内定していた。私の母がとても残念がって泣いていたのをはっきり記憶してい
 ます。(盲腸で死ぬなんて〜といって)
 私の家で、祖父母の病気、母の出産などの時、トシ子さん、章さんがよく手伝いに来てくれていました。

5、すみ伯母について 
<武の大叔母>
・だいぶ以前に、医師江口勝四郎氏と別れ、私の一家が上京した昭和11年頃には、日暮里駅近くの谷中初音町
 に住んでいた。すぐ後ろに彫刻家の朝倉文夫氏のアトリエがあって、同氏の姿が窓ごしに見えた。
 動物が大好きな伯母で、猫や鶏と同居同様。
 娘の光子さんは江口さんの出身地の茨城に嫁ぎ、息子の勝弘さんが同居していて、私と一緒に蓮根町のお宅や
 松戸の惇さん宅にもよく行ったものです。江口勝四郎氏は本所の相生病院長、岩波新書の「東京大空襲」早乙女
 勝之著に、昭20・3・10の東京下町全滅の時、出産直後の親子を命がけで救ったことで知られている。

6、私の一家の上京について
・岩手県松尾鉱山(当時東洋一の硫黄鉱山)の小学校教師をしていた父は色々な事情で上京を決意、盛岡市加賀
 野に住んでいた祖父母を伴って一家で上京(昭11・6月)、荏原区(現在の品川区)の第二延山小学校に転職した。
 住居は荏原区荏原7丁目。祖父母は(昭11〜13)同居していたこともあって、亀代さんは度々来られた。
 亀代さんは姑、小姑で苦労していた私の母の最大の味方で心の支え、母はアネッコさんと呼んで慕っていた。
 私も母に連れられて、大崎の貴兄のお宅を訪ね、近くの神社、小学校の校庭でトシ子さん、美代子さんと遊んだ
 帰りに五反田の白木屋デパートでチキンライスやカレーライスを食べるのが楽しみだった。
 (祖父母は昭13年に盛岡に帰り、すえ伯母宅に世話になっていたが、14年に祖父74歳、祖母16年に74歳で
 亡くなった)
・私の家は、池上線旗ヶ丘駅(現在は旧大井町線東洗足駅と統合して旗の台駅になっている)下車、10分位の所、
 昭和医専(現昭和大学)のトナリの第二延山小学校が私の学校、父が教師。私の妹は恵美子(昭7年生れ)と
 佳代子(昭11年生れ)それに昭17年に弟の稔が生れました。
 私は昭17年、府中八中に入学したが昭19年12月に疎開で盛岡中学に転校した。(妹2人は同年6月、先に盛岡
 に学童疎開していた)
 但し、盛岡中学は昭20年2月に勤労動員になり2〜8月の間、川崎、平塚で度々空襲になり何のための疎開かわ
 からない結果となった。(一人の犠牲者も出さずに盛岡に帰ることができたのは奇跡といわれている)

7、私の上京進学
・昭和22年上京、明治大学予科に入学、25年旧制法学部に進学した。住居は下宿を転々とした後に24年から東京
 学生会館(千代田区代官町、旧近衛連隊の兵舎で現在は北の丸公園になっている)に住んでいた。
 貧乏学生で家庭的雰囲気に飢えていたので度々蓮根のお宅にお邪魔した。カレーライスをご馳走になりソースをか
 けて食べるのを教えてもらった。運動会(貴兄の小学校?)にも連れていってもらった。
・千代子さんのお宅へも泊めてもらい松崎さんにお世話になった。又、松戸の惇さんのお宅に行き、大家の吉野さん
 や近所の農家を紹介してもらい買出しを助けてもらった。鶴見岸谷の斎藤ドラム社宅に移転してからも何度か訪ね
 たし、更に大学卒業後は、山一の札幌支店に転勤するまでの約4ヶ月間の下宿を世話してもらった。
・戦後、混乱の時代、食べ物も、何もかも不自由な時代に無遠慮にお邪魔したのに、嫌な顔ひとつせずにお世話くだ
 さった貴兄のご一家、惇さん、千代子さんご一家に改めて感謝しています。
 皆さんのご好意のお陰で営業を挫折することなくまっとう出来たものと思っています。

8、余談2つ
・私の父は、戦後、盛岡に帰ったものの教職をはなれて失業し、経済的に困難な時に進学したので、学資、生活費を
 自力で稼ぎ出す必要があった。育英資金の貸与はうけたものの不足分はアルバイトで食いつないだ。
 昭和25年、偶然の機会に東亜燃料工業(株)(石油精製)に就職でき、準社員の待遇で卒業まで約3年間働いた。
 後に、惇さんが和歌山に転勤して、東燃の仕事をし、マリ子さんが東燃に就職、社内結婚したとのこと、奇縁におど
 ろきました。
・私の母の実家は盛岡市(旧)鍛治町にあった長内家<オサナイ>(印刷業)南部藩士で江戸時代中頃までは佐々木
 姓、現在の久慈市長内が領地だったので長内姓を名のる様になったらしい。
 近江源氏の家系で、宇治川の先陣で知られている佐々木高綱(長兄定綱、次兄盛綱の3兄弟)の子孫。
 家紋はマサヨツメ、乃木希典大将家は定綱の直系の子孫で家紋は同じ、マサヨツメとのこと。
 昔々をたどれば、同じ佐々木の同族で縁がある?

         以上

父肇、出征の時の親戚の集合写真。父出征の写真

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