<幼児期>

 私の幼児期はかなりわがままに育てられたようだ。祖母にとって初孫であり、父の弟妹とともに生活していたためだろう。家庭は父の母である祖母と、父の弟妹4人の8人であった。わがままというのは、おもちゃ屋などで欲しいものを買ってもらえないと、おもちゃ屋の前の道端でひっくり返って、だだをこねたということである。

 また、いたずらっ子であったようだ、一緒に遊んでいる女の子や通りがかりの子に砂をかけたりして、よく母親のところに苦情がよせられたようである。

 隣の家に、令子ちゃんという同じ年格好の女の子がいてよく一緒に三輪車などで遊んだ記憶がかすかに残っている。ときには、その子にも砂をかけたのだろうか、令子ちゃんの母親がわが家に苦情をいってきたことがあったようだ。

 あるとき大事件が発生した、母がミシンかけをしていたときだった、いたずら好きの私は好奇心が旺盛だったのか、ミシンの針が作動しているところに手をだしたのだ、針は私の左手だったと思うが、親指の爪の真ん中部分を貫通して折れた、痛さは不思議と感じなかったことを覚えている、びっくりして驚きのあまり痛みを感じなかったのだろう。

 母の驚きはどうだったろうか、あまり記憶にない。

 

 すぐに近くの医院に連れて行かれて針を抜いてもらった。私は泣かなかったような気がする、あまりの驚きに声もでなかったのかもしれない。

 この医院は初めてだったようなきがする、いつもはもう少し離れた大崎駅の近くの医院に通っていたようだ、しかしこのときばかりはそんなことをいっていられなかったのだろう。

 

 そんないたずら坊主の私にも、母のやさしい肌が恋しくおもうことがよくあった。

 母は私を産んでまもなく肺結核に侵された、いまのガンのようなものだったのだろう、不治の病とされていた、それと伝染性があるため子供に感染することを恐れて、子供である私を抱くことをしなかったのだろう、私は母に抱かれた記憶がない。

 しかし、母のぬくもりのある肌の暖かさを知っているということは、赤ん坊のときの感覚が本能的に残っているためなのだろう。

 

 私は母に抱かれて寝たおぼえがない、いつも父と寝ていた、父と寝るのがいやだった。

 父はタバコ臭かった、ヒゲが痛かった、なんとか母と一緒に寝たいと思っていた。

 でも、私以上に、母は我が子を抱きたかったことだろうと、あとになって思うようになった。

 ある夜中のこと、ふと目がさめて、いつものタバコの匂いと痛いヒゲがあった。

 私は脱出をこころみた、父のふとんから抜け出したのである。

 母のいる隣のふとんに向かってはっていった、ところが途中で枕もとにあった電気スタンドにぶつかり、それを倒してしまい、その物音で目を覚ました両親にきづかれ、元の父のふとんに戻されたのである。

 私のおもいはかなわなかった。そのことを、翌朝私は口にしなかったと思う。

両親も、子供が夜中に寝ぼけて夜中にふとんから這い出した、とでも思っていたのだろう、次の日両親は私になにもいわなかったような気がする。

私が4、5歳のときだった。

 

私は一人っ子だった、母が肺結核に感染したため、子供は私ひとりであきらめたのだと考えられる。部屋のすみには、いつも白いセトモノの痰壷がおいてあった。私は当時、母が病気だとは知らなかった。ときどき部屋のすみで痰をするだけで、あとは普通の生活をしているように私にはみえた。

だがそのときも、母の身体は病魔にむしばまれていたのだろう。私は兄弟が欲しかった、

父と同居していた一番下の妹、つまり私からみれば叔母だが、6歳違いということもあって、その叔母を「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と呼んで慕っていた。

 

父は、私が1歳になる前に出征した。親族が集まり、父の出征を祝ったのだろう、母に抱かれた私と親族たちが、出征祝いのたすきをかけた父をかこんで、撮った写真がいまでも残っている。

その父は、2〜3年後に敵地で敵弾をうけ負傷し、重傷を負って戻ってきた。

このとき敵弾で負傷していなかったら、終戦まで戻れず、あるいは戦死していたかもしれない。フィリピンの激戦地だったというから。

 

私が4,5歳頃か、祖母はよく祖母の兄弟の家に連れて行ってくれた。とくに印象に残っているのが、弟の鎌田耕一おじさんのところだ。祖母の嫁ぐ前の姓は鎌田といった。

池上線に乗って出かけた、五反田か大崎広小路から乗った。降りたところは記憶にない、耕一おじさんの連れ合いは愛子といった。子供は三人いて潤一、カヨコ、エミコという名前えだった。三人の子供は父のいとこにあたることになる。

二人の女の子は、私より3,4歳年上だったようだが、かわいらしいすてきな女の子にみえた。

また祖母は、祖母の妹のオスミおばさんのところにもよく連れて行ってくれた。オスミおばさんは日暮里駅近くの谷中墓地のそばに住んでいた。おばさんの姓は江口といった、子供は二人いて勝弘ともうひとりは光子といった。連れ合いはもうこのころ亡くなっていた、おばさんは猫がすごく好きらしく、いつも猫をかわいがって飼っていた。

 

5歳をすぎたころから戦争が激しくなってきたのか、警戒警報のサイレンが鳴ったり、空襲で防空壕に入る機会が多くなってきた。

私は戦争をよく理解できていなかった、B29が襲来し防空壕に入ることが楽しかったのだ。なぜなら、防空壕に入るとかならずといってよいほど、お菓子が食べられたからだ。

父が戦地から持ってきたという、乾燥バナナは特においしかった。

しかし、病身の母には、この防空壕に入ったり出たりする生活は、より病気の進行を早めたのだろう、母は入院することになった。このことも私にはよく理解できていなかったようだ。

あまり寂しいという記憶がない、祖母、叔父、叔母に囲まれて生活していたためだろうか。そんな母も数ヶ月で退院したのだろう、私とふたりっきりの療養生活がはじまることとなる。

今思うと、両親は祖母を含め母の病をいかに克服すべきか、思い悩んでの結果だと思える。その当時の私には両親の悩みなど知る由もない。

療養先は、母の実家の栃木県茂木町で、実家の近くにあるお寺の裏側の小さな一軒家だった。そこでの母とのふたりっきりの生活は、不思議といつまでも鮮明に私の脳裏にやきついている。

トイレは外にあり、井戸ももちろん外で、竹ざおを使ってのつるべ式だ。

ある時、叔母が訪ねてきて、この井戸を使ったが、あやまって竹ざおの先の桶を井戸の底に落としてしまい、困っている姿をいまでも思い出す。

私は5歳ぐらいまでは、おねしょをしていた。ある朝、気が付いたらやってしまっていた、いつもは黙っていて、しかられていたのかもしれないが、その時はどういうわけか、母に「ごめんなさい」といってあやまった。このときも、てっきり叱られるとおもっていたが、母は「いいんだよ」とニッコリ、笑顔でゆるしてくれた。

この時の母の笑顔が忘れられない。

 

このお寺の裏にある一軒家は、今でも少しはかたちが変わっているが、昔の面影をのこし、ひっそりと存在する。

トイレや井戸はないが、住んでいる人がいる、どんな人が住んでいるのかわからないが、一度声をかけてみようかと思ったりもする。

 

それから、われわれ母と二人は、どういうわけかわからないが、東京に戻り、母は入退院を繰り返し、私もいよいよ6歳になった。

小学校に入学することとなる。

空襲もますます激しくなってくる。

 

以下、<少年期>に続く。


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