壮年期 <本田宗一郎さんのこと> 昭和46年 

本田宗一郎さんに、目の前で、ふたりっきりで出会ったことがあった!
それは、和光研究所のトイレであった。私が、「こんにちは!」と挨拶をすると、「お〜!」と言って答えてくれた。
本田さんは、用をたした後、手を洗った後、あの白い作業服の腰のあたりで、ちょこちょっと手を拭いていた。
どこにでもいる、おじさん、という印象だったことを覚えている。たったそれだけのことではあるが・・ この時の
印象は想い出深い。

昭和46年であった。この頃は、「マスキー法」をなんとかクリアーすべく、排気ガス低減対策で、研究所も”CVCC”
エンジンの開発で忙しく、私達は狭山から設計の応援に研究所にきていたのである。
CVCCエンジンの設計のリーダーは、元社長の川本さんだった、勿論、その頃は社長になられるとはおもっても
いなかったが、川本さんの仕事を手伝ったのである。その下に桜井さんもいた、桜井さんは、その後”F−1”の
チームリーダーになった人でもある。

本田さんは、よく工場にもこられた。狭山製作所にも何度かこられた、そして、工場内のちょっとしたスペースに従
業員を集めて、げきを飛ばした、この本田さんの話を聞くのが楽しかった。世界一の自動車メーカーになるんだ、と
も言っていたようだ。当時としては、夢のまた夢のような気がしていたが・・
工場にこられた時には、工場を観て廻られる、そんな時、工場のお偉いさんがぞろぞろついてくるのを嫌っていたよ
うだ。私は遠くからみていたが、本田さんは、よく加工中の部品などに手を出され触って確かめておられた。
そんな時にお付きの方が、真っ白なタオルを差し出して、手を拭くように差し出すと、凄く怒られた。

「こんないいタオルを出すことはない!ウエスでいいんだ!」と、お前たち、何を考えているんだ、と言わんばかりで
ある。会社の経営陣には、凄く厳しかったようだ。

それから、本田さんと一つの部屋で面と向ったのは、昭和47年の初め頃、軽自動車「ライフ」のエンジンブロックの
”ダイレクトネジ”の開発の時だった。
ダイレクトネジとは、アルミ製のブロックに鋳造時にネジを成型してしまおうという発想で、トライしたのである。
和光製作所の鋳造技術者が中心になって、私は、設備を担当した。金型の中にオスネジを埋め込み、金型内にアル
ミの湯が流れ込んで、固まる寸前で、このオスネジを引き抜いて、メスネジを成型しようというのである。

オスネジを引き抜く動力には油圧モーターを配し、密閉されたギアーボックスを介して、動力をオスネジに伝えた。
機械構造的には、うまくいって試作は何個かは造ることができ、成功するかにみえた。
しかし、何個か鋳造していくと、大きな問題が出てきたのである。金型内のオスネジが僅かながら曲ってしまうのであ
る。アルミの溶解湯は、瞬時に金型内に入り込み、その圧力は何百気圧にもなる。それと、ワークとオスネジを引
き離すためには離型剤の役割が重要だとされていた。離型剤やその塗り方にも問題があったようである。

それで、開発チームとしては、時間的なこともあったので、今回のライフのブロックには適用を見合わせようということ
になった。それを本田さんに説明したのである。私は、脇で、その説明を聞いていたが、本田さんは怒り出すのでは
ないかと、内心はらはらしていた。しかし、本田さんは、あっさりしたものであった。説明を聞くと、「わかった、今回は諦
めよう!」といい、「ところで、一番の問題はなんだ!」というのです、「離型剤です」と答えると、「離型剤の主原料はな
んだ」というのです。「炭素が主の材料です」、「そうか、炭素か?」といいながら、「それなら、ウドンコは試してみたか」
というではありませんか、私は、本田さんの顔をじっと見ていました。でも、本田さんは、真顔です。私は、この人は、
なんてこと言うのだろう、気でも狂ったか、と正直おもったのです。

でも、本田さんは、真剣なんです。私は、笑いを噴出したい気持ちをじっと抑えました。本田さんはよく言っておられまし
た。「原理原則を大事にしろ!」と、ウドンコが燃えれば炭素になるということなんです、原理原則なんですね!

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