壮年期 <ホンダへの入社> 昭和41年 


昭和41年12月19日、本田技研に入社した。「技術者募集」という新聞広告をみて、応募したのだった。
それまでは、東京・田町の「興和設計」という設計事務所に通っていた、所沢からだから、通勤も大変だった。
興和設計には永く勤務するつもりはなかった。自分は、機械設計の仕事で生きていこうと決めていたので、
設計の技術を磨きながら収入を得られるので、設計事務所は、格好の職場だった。

ただ、求人の新聞広告は毎日かかさずにみていた。
そして、本田技研の募集の広告に応募したのである。それまでも、幾つかの会社に応募したが、ことごとく
書類選考ではねられてきた、半分はひがみもあるかもしれないが、高校、大学と夜学だったせいのようだ。
今回も半分はダメだろうとおもっていた。
しかし、試験を受けさせてくれた。試験は、筆記試験と簡単な「治具設計」だった、治具設計は前の職場でも
やっていたことなので、まあまあうまくできたとおもっている。

そうして、筆記試験もパスした。面接試験を受けた。そして、入社することができたのである、28歳だった。
夢のようだった。給料も、5万円あまりだという、高賃金のホンダ、といわれていた通りだった。それまでの
給料は3万円あまりだったから、生活設計も変わってきたのである。その時、妻、3歳の長男とで生活してい
た。当時は、ホンダが社運をかけて発売の準備をしていた、軽自動車、「N360」の生産準備に忙しかった。

所属は、埼玉県狭山市にある、「狭山製作所・第二技術管理課」といっていたが、仕事の内容は「機械設計」
だった。エンジン部品を加工する設備を設計する部門なのである。「3係」に所属した、1係、2係があったが、
それらは、箱物部品といわれた、エンジンのケースにあたる、ヘッド、ブロックという部品の設備を担当し、
3係は鉄物部品といわれる、クランクシャフト、コンロッドなどの設備を担当した。

しばらくの間、6ヶ月ぐらいだったろうか、その間は設計らしい仕事はさせてもらえなかった。バラシ、といって、
先輩達が設計した計画図を部品図にすることを「バラシ」といっていたのである。設備設計の順序なのである
から、仕方がない。
バラシをしながら、ホンダの設計の考え方、設計基準などを学んでいくのであるから。

係長は、矢ヶ崎さんといい、先輩達は、江波戸、平坂、金谷、宮宅、前原、和光さんなどがいた。
入社して半年ぐらい経ってからだったろうか、ホンダが、初めて本格的な小型乗用車を計画していた。
「ホンダ1300」である、今までにない独創的なクルマ、というふれ込みだった。エンジンは空冷だった。
当時の小型車としては、異例の前輪駆動である。車体もシャーシがない、モノコック構造であった。また、ルーフ
とサイドパネルのつなぎ方にも独創的なものがあった。一般的には、ルーフとサイドパネルのつなぎは、フロント
ピラーとリアーピラーのところでハンダ付けをしていたが、これを俗称であるが、モヒカンといわれるやり方で
ルーフのところで重ね合わせて、スポット溶接でつないだ。ルーフに二本の線があり、これがインデアンのモヒ
カンに似ていたことから、こんな風に言われていた。

これらも、本田宗一郎さんの思想が入っていたようだ。つまり、ハンダは鉛が含まれていて公害の元になるとい
うことを懸念してのことだと、あとで知った。エンジンの空冷もしかりである、宗一郎さんは、エンジンは空冷、とい
う持論を持っていた。「水冷だろうが、結局は空気で冷すんだろう、だから水など使わずに直接空気で冷すべき
だ!」と・・。

「ホンダ1300」の設備計画は、我々、鉄系部品の設備を扱う、3係には大きな課題が待っていた。
ホンダが初めて、鍛造製の一体型クランクシャフトを製造するのである。コンロットも分割型になる。これらの製法
はホンダとしては未経験なのである。そして、宗一郎さんからは、号令がかけられた、「徹底した自動化の工場を
造りなさい」と。工場は、三重県の鈴鹿製作所であった。

私は、この時、「クランクシャフトのバランシングマシン」を担当することになった。

続く バランシングマシンへ

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