<少年期U−4> 進路

 また二年生では、文化祭で劇に出演した。「やまびこ学校」という題名で、私は最後のほうに出て「おらあー、おらあー」と泣きじゃくる、不登校の少年役だった。

 やまびこ学校の先生役は、小学校で一緒だった柴田嘉基であった。劇が終わると、級友から「おまえ、泣いていたんじゃなく、笑っていたんじゃないか」といってひやかされた。

 この時、担任は山崎先生だった。山崎先生はよく生徒をかばってくれたことで印象が強い。ある時、荒川の戸田橋のたもとにバラバラ死体が浮かんで、騒然となった時のこと、その犯人とおぼしき人物に関連のある生徒が同級生にいた。山崎先生が必死で「まだ事実は明確でない」と生徒をかばっていたが、その生徒はいずらくなったのか転校していった、いまどうしているか。

 

 二年生も終わりに近づいてくると、だんだん生徒の間がにぎやかになってきた。

 進路のことが話題になりはじめた。

 「俺は就職だ」「俺は進学だ」と意思表示をするものがでてきた。そんな話しを聞いているうちに自分もだんだんと、高校にいきたいな、という気持ちと働いてもみたいな、働いて自分で自由に使えるお金があったらいいな、などと漠然と考えていた。

 将来なにになろうか、ということを真剣に考えたことがなかった私も、勉強だけはもう少しやらなければ、なにになるにしろ必要なのだ、と気がついたのか、このころから猛然と勉強しだした。この頃、アチーブメントテストという学力評価試験があって、このテスト結果によって個人の学力が評価されていた。

 定期的に行われるこの模擬評価試験の結果が廊下にはりだされたりしたが、この結果が楽しみになってきた時期があった。これは自分の学力向上がめにみえてきた時だったのだろう。とくに社会、歴史、理科、国語の漢字の読み書きに興味を示していた。級友たちとクイズのようにお互い問題をだしあって、楽しんで勉強していた。例えば、「九州地方の県名と県庁所在地をいえ」とか「ヨーロッパの国名と首都は」「原子記号1の元素はなに」「枕草子の作者は」「音楽の父とは誰」などとやりあった。

 

 三年の夏頃か、進路について山崎先生に相談し、昼は働き、夜、高校に通うことに決めて行動するようにした。家庭の状況からどうしても働かざるをえなかった、とはいっても高校にもいきたかったし、それでこのような選択となった。

 高校は、板橋高校、北野高校、北園高校の定時制を通学のことも考えて選択肢とした。

 就職はなかなか決まらなかった、小さな会社は沢山あったが松崎の叔父がパイロット万年筆に勤めていたので、なんとか叔父の紹介で入れないものかと考えていたのが、なかなか決まらない原因のようだった。山崎先生からも「パイロットはなかなか入れないよ、むりかもしれない」といわれ、小さな印刷インクを造る会社を紹介され見学にいってみたが、仕事の内容が自転車に乗ってインク缶の配達と聞き、自転車のりにチョット自信のなかった自分は躊躇し、この会社はやめることにした。

 いろいろ検討したのだろうが、結局は志村坂上にある「青木注射針製造」という会社に就職することにした。先生から女性が多く、きれいな会社と聞き、これが決め手となって、

ここに決めることとなった。

 

 高校は、伝統のあることと、6歳年上のミヨ叔母の出身校でもあるので、北園高校と決めアチーブメントテストの成績を上げようと多少努力したようだ。

 そして結果的には、北園高校に入学できることになり、昼は青木注射針に勤め、夜は都電に乗って板橋駅近くにある北園高校に通うこととなった。

 北園高校の定時制には私のほかに、秋山、市川、柴田、原田、矢野、清水など優秀な仲間が三中から一緒にくることになったので、少々自慢気であった。

 原田義男と一緒の高校の合格発表をみにいった記憶がある。また原田は青木注射針にもいく予定をしていたが、彼は王子製紙という会社にもいく意向をもっていたので、その時点ではまだ決定していなかった。それだけ原田とは仲良くしていたのだろう。

 中学には三年間一日も休まず登校した、しかし一回だけ遅刻をしたので精勤賞だった。

 言い訳を言えば、この遅刻もケイちゃんを待っていて遅れてしまったものだった。

 こうして、昼働き、夜、学校に通う生活がはじまるのである。

 

           以降、<青年期>に続く。
青年期1−1へ

inserted by FC2 system