<少年期U−2> 連合運動会

 学校では、よく授業の一環として映画を観にいった。文部省特選とか選定映画というのであったが、クラス単位とか学級単位でいくのである。勿論歩いていくのだ、4〜5km離れた常盤台、板橋、大山、志村劇場などだった。記憶に残る映画は「原爆の子」「聞けわだつみの声」「二十四の瞳」などだが、「原爆の子」の悲惨さは子供ごころにも痛ましく感じ、アメリカという国は本当にひどいことをする国だと、しばらくの間は、アメリカをうらむ気持ちになっていた。

 

 その頃よくグリコを買った、これはグリコを食べることもさることながら、中に入っている点数券を集めることが主な目的だった。集めた点数によって、顕微鏡やカメラなどがもらえたからだ。カメラはマイクロフィルム用で現像などの維持費がかかりすぎ、あまり使わずじまいだった。顕微鏡は、植物の葉や花粉などを観察したりして、けっこう楽しめたようだった。わずかな小遣いはほとんどすべてグリコに変わった。

 

 志村三中には開校してまだ日が浅いせいか、校歌、校旗というものがなかった。

 そこで、校長の提案だったか、全校で廃品回収がはじめられた。カン、ビンなどを集め、これをお金にかえ、校歌、校旗の制作費にしようというものだった。

 何ヶ月かかかったと思う。みごと校歌、校旗ができあがった。校歌の作詞は土岐善磨呂だった。作曲はなんとかいった、有名な作曲家だった。費用もけっこうかかったのだろう。

 

 校旗がなくてちょっぴりみじめなおもいがあったので、校旗の完成はうれしいことだった。みじめなおもいというのは、そのころ板橋区内の中学校が年に一度集まって、「連合運動会」となづけて、12校が一堂にかいして運動会が開催されていた。このとき各校は、校旗や応援旗をもって参加していた。わが校はそれがなかったのである。

 そのためではないだろうが、わが校は競技の順位が最下位か、11位とふるわなかった。

 競技の優劣も伝統というものがあるのであろうか、歴史の古い学校が強かった。つまり一中と名がつくところが強いのだ。学校名は地名をつけて順に一中、二中とつけていった、だから一中が一番古く伝統校ということになる。志村は三中までしかなかった。

「連合運動会」で優勝を争うのは決まって、板橋一中、上板一中、赤塚一中だった。

 優勝を争う学校は「連合運動会」が終わると、すぐに来年度の準備に入るという熱のいれようだと聞いたことがある。伝統校には、それなりの努力があったのだろうと、後になって気づいた。

 

 運動といえば、この頃からか卓球をはじめた。中学校にも卓球台は一台しかなく、それも玄関先のスペースを利用したもので、なかなか練習などできなかった。そこで父の会社に立派な卓球室があるのを知り、そこでその場所を利用させてもらうべく父に話し、そこで練習をした記憶がある。

 練習の仲間は、級友の小宮、浅野だったと思う。このような練習の成果か、結構腕を上げ、クラス対抗の試合にでたりした。

 また、この頃そろばん教室に通いだした。たしか、8級からはじめたと思う。7級、6級、と順調に検定試験に合格したが、3級ではじめてつまずいた。城山幼稚園の部屋を使っての教室だった。ここで自分の限界と自分にいいきかせ、学校の勉強もいそがしくなることを理由にして、そろばん教室をやめた。そろばんに一緒にいっていたのは一年後輩の尾身俊彦ら数名だった。

  <少年期U―3>に続く

少年期2−3へ

inserted by FC2 system