<少年期T−6> 家庭環境

 

昭和21年、私が3年生になった頃、叔父、叔母があいついで結婚した。叔父は千葉県松戸の呉服やの娘さんと、叔母は松崎という姓に変わり、蓮根に所帯をかまえた。

この時期、父も再婚した。

叔父は松戸よりひと駅先の馬橋に住んでいた。祖母に何度か連れて行ってもらった。

松戸から先は列車の便が悪く、よく祖母とふたり馬橋まで4〜5kmの山や畑道を歩いて、叔父の家までいった。叔父の家は馬橋の駅から東の方に高台になっているところにあったと思う。まわりは田んぼで夜になるとカエルの合唱がすごかった記憶が残っている。

このとき祖母は58歳だった。

 

その後、叔父は愛知県安城に転勤になった。

ある時、その祖母が叔父のところにひとりで出かけていった、愛知県の安城である、一ヶ月ぐらいだったとおもったが、すごく長く感じた。用事はなんだったのだろう、よくわからなかった、もしかしたら叔父のところに子供ができたのか。その時はそんなことはどうでもよかった、早く祖母に戻ってきて欲しかった。

祖母がいないことが寂しく、祖母がこいしく、涙が流れて、涙が流れてしかたがない夜が何日かあった。祖母がいないことが、こんなにも寂しいこととは思いもよらなかった。

祖母が帰ってきたら、早起きをして廊下の雑巾がけをしたりして、祖母の手助けをしようと、そのとき心の誓った。

 

祖母が安城から戻ってきてから、私は廊下と台所の板の間を、雑巾がけをすることを日課とした。それと朝食の前にあいさつをするようになった、「おばあちゃん、おはようございます」「おとうさん、おはようございます」「お継母さん、おはようございます」「おねえちゃん、おはようございます」と家族ひとり、ひとりに畳に手をついて朝のあいさつをした。この習慣は、蓮根を離れる10数年間続いた。

 

家の手伝いも、いまおもうとよくやった。大変だったのは、風呂の水汲みだ。30mぐらい離れた、手こぎの井戸から水を汲みバケツで運ぶのだ。10リッターぐらい入るバケツを両手にもって風呂に運ぶ、風呂には160リッターぐらい入ったから、8回は運んだはずだ。近所のおばさんから「たけしちゃんは、よく家の手伝いをするね」といわれたり、お菓子をくれたりした。

このころの風呂は、父が会社からもらってきたドラムカンを利用した、五右衛門風呂である。ドラムカンの底が熱いので風呂に入るときは板が浮いていて、この板を自分の体重でドラムカンの底に沈めて、足などが熱い底に触れるのを避けたのである。

風呂場は父が、家の北側にトタン板を利用して造ったすき間だらけのものだった。だから、寒い時はドラムカンから出るとすき間風で寒くてたまらなかった。また、ドラムカンに入っていると、下でマキを燃やしているものだから、これがまたけむくてたまらないのである。だからか、風呂にはゆっくりと入った記憶がない。

父はときどき洗濯もしていた、タライと洗濯板での洗濯だ、だからかなりの重労働だったのだろう。こんな時は決まって水汲みは私が担当だ。なんせ、すすぎの時が大変だ、10リッターのバケツを両手に持って何回もの往復だ。

 

家ではウサギや鶏を飼っていた。父が小屋を廃材など利用して造ってくれた。餌をやったりする世話は私がやった。ウサギの餌は近くの野山に行ってとってきた、だんだんとウサギの好きな草がわかるようになってきた。

大好物は、アザミ、タンポポだった。茎から白いしるがでるが、ウサギはこれを好むようだ、ウサギには水をあげてはいけない、と父からいわれていた。理由はわからなかったが、それを守っていた。

このウサギや鶏は、われわれ家族の食料として飼われていたのである。そのころ、牛肉や豚肉はわれわれの口には到底入ろうはずがなかった。そこで、父はウサギや鶏を飼うことにしたのだろう。よく家族の誕生日などにウサギや鶏をしめ、料理を父が作った。

父は、ウサギや鶏をしめるのがうまかった。子供の目からみると、とても残酷でみていられなかったが、手ぎはよく血抜きをした。この血抜きが肉をおいしく食べるこつだといっていた。これらのことは父が軍隊でおぼえてきたのかと、子供心に考えていた。

 

   <少年期T―7>に続く
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