<少年期T−3> 疎開

 

叔母は、真岡市の中学校に、真岡線の列車に乗って通い、私は茂木小学校に通うこととなる。母の実家は、母の父、私からみれば祖父と、母の兄夫婦、弟夫婦とその子供二人が住んでいた。祖父は足と片手が不自由だった、連れ合いを亡くしてから大酒を飲み、身体をこわしたときいているが、さだかではない。

 私には、身体の不自由な年寄りというようにはみえなかった。祖父はとてもこわかった、足はあぐらをかいたような状態で、足を伸ばすことができず、いざって家の中を動き回っていた。片手にハエたたきのような棒を持って、われわれ子供たちがいたずらをしたりすると、その棒で激しくたたくのである。

 そのいざり方は、それは素早いのである、両膝とお尻を使って素早く動きまわった。

 「五体不満足」の乙武さんには申し訳ないが、あれほど素早くはないが、あんな感じだった。いまでいえば、身体障害者ということになるのだろうが、そんな感情はまったくなかった、本当にこわい、じいさんだった。

 身体が不自由なことで卑屈になることは全くなかった、子供である伯父、叔父たちや私たち孫に物事を指示したり、いいつけたりしていた。

 

 母の実家は、蹄鉄屋を営んでいた。伯叔父、が馬のカナグ、つまり馬の足さきを保護する、人間でいえば靴のようなものだろうか。その馬の靴をはきかえさせるのが蹄鉄屋である、まず馬の古くなった蹄鉄をくぎ抜きのような道具で取り外し、その馬の足の形状に合わせて、あらかじめ「下ごしらえ?」をした蹄鉄をフイゴにかけて真っ赤に熱して、金づちでたたき形状を整えていく、それを馬の足にあて形状を確認する、それを何回か繰り返す、その度に馬の爪がやける、こうばしい臭いがただよう。

 われわれ子供たちは、馬によってくるアブを追い払う役目をいいつけられた、馬の下半身についたアブは馬が長い尻尾で追い払うが、上半身のアブは首をふるぐらいしか馬にはなす術がない、そこでわれわれが篠竹で造った「アブ追い」という長がホウキのようなもので、お客さんであるお馬さんのご機嫌取りをするのである。

 

 蹄鉄屋というのは、鍛冶屋だと思った。鍛冶屋と同じ道具がそろっていた、フイゴや金槌が大きいのから小さいのまで多数おいてあった。馬の足からはずした古い蹄鉄はフイゴにかけて溶かし、新しい蹄鉄によみがえらせるのだ、リサイクルするのである。

 だから、蹄鉄の「下ごしらえ」は大変な労力をようしたようである、伯叔父が二人でトンテンカン、トンテンカンとやっていた。それと副業に農業もやっていた、それでか食べ物で不自由した記憶はない。

 伯父夫婦には子供がなく、叔父夫婦には3人の子供がいた、私にはいとこにあたる。

 叔父の長男は、修一といって私より1歳年下だが、身体が大きく体力ではとてもおよばなかった。だが素早さは、私のほうが勝っていたようだ。よく私たち二人に畑から野菜を採ってくるように言いつけられると、二人は競って畑に走って行った。

 早く畑につき野菜を確保するのは、私が早かったようだ、いとこの修一はその野菜を腕ずくで私の手から奪い取りもち帰るのだ。

 このことは、よく伯母たちが話してくれた、「武は、すばしっこいから何でも先にやってしまう、修一は遅いが腕ずくでそれを奪い取ってしまう。」伯母たちはよく見ていたのだ。

 でも二人は兄弟以上に仲が良かった。

 

よくいたずらもした、家の軒先にあるツバメの巣をいたずらし、ツバメのヒナを地面に落としてしまったことがあった。この時は叔父にひどく叱られて、二人とも庭にある大きな柿の木にしばられた思い出がある。

この頃は、農家にとってツバメは農作物を食べ荒らす害虫を食べてくれる、だいじな生き物だった。もちろん農薬などない時代だったから。そのだいじな生き物を粗末にした、ということできびしく叱られたのである。

昼食も食べさせてもらえなかった、いとこの修一と二人、山に行きグミなどを食べて空腹のたしにした記憶が残っている。

また、夕方にはよくホタルをとるために竹ほうきを持って追いかけた。線路ぎわの小川に沢山のホタルが乱舞していて、それはきれいなものだった。

そんな小川にも魚とりに川に入ると、決まってヒルが足に吸い付いき血をすわれた。痛みはそれほどないが、ナメクジみたいにぬるぬるしていて気持ちが悪かった。それよりも私を悩ませたのは、ブヨだった。ブヨはごま粒ぐらいの大きさで蚊のように足などにたかり血を吸った。それだけならよいが、体質なのか、さされたあとが化膿して足がおできのようにウミをもった。しばらくのあいだは、足が包帯だらけのときがあった。

 

茂木での疎開生活は、空襲もなく食べ物にも不自由なく、楽しかったような気がする。

しかし、あとで思ったことだが、両親、とくに母はどんな思いでたったひとりの我が子を、自分の実家とはいえ疎開に出したのだろう、なぜ母も一緒に疎開しなかったのだろう、と思えてならない。母の病気のことを考えても、茂木の生活のほうが東京よりはよいはずなのに、なにかほかに事情でもあったのだろうか、いまとなっては、そのへんのことは全くわからない。

 

  <少年期T―4>に続く
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