<少年期T−2> 引越し

 

 しばらくは、私と両親の三人で生活していたようだ。空襲の激化を考え、とりあえず我々だけが大崎を離れたのかもしれない。小学校は近くにある小高い山の上にある、城山小学校だった。担任の先生は、小太りのおばさんという感じのこわい先生だった、名前の記憶はない。

 急に家族が少なくなり、私が寂しいだろうと思ったのか、両親は私にヒヨコを3匹買ってくれた、火鉢がでていたから少し寒くなってきた時期だったのか、2匹はすぐに死んでしまった。あとの1匹もまもなく弱ってきて、動かなくなってしまった、死んでしまったのかと思ったが、母が「火鉢のそばで、暖めてごらん」というので、火鉢の灰の上に炭火からは離して寝かしておいたところ、しばらくしてヒヨコが動きだしたではないか、私はびっくりして、こんなことってあるのだろうかと、奇跡がおこった、とこの時は思った、てっきり死んでしまったと思っていたから。

 ヒヨコは元気をとりもどして、よく動きまわった。

 私のよき遊び相手となった。

 

 それからしばらくして、2,3日家を空けることになる、ヒヨコは餌をたっぷりと与えかごの中に入れておいたのだと思う。

 帰ってくると、ヒヨコは元気だった。かごから出すと私のあとをついてきた、どこえいくにもついてきた、無論家の中でだが。2,3日とはいえどもヒヨコはひとりで、そうとう寂しかったのだろうと、この時はヒヨコがいとおしく思えた。

 それからは毎日このヒヨコと遊んだ、近所にはまだ人がはいっていない家ばかりで友達もいなかったのだろう。

 ある時、いつものように庭でヒヨコと遊んでいた、すると物陰に野良猫がいるのに気づいた、とっさにヒヨコを狙っていると悟った私は、近くにある小石を拾い上げ、敢然とのら猫に立ち向かった。野良猫は当然逃げていくものと思っていた、ところが猫は私の足元をするりとかわし、素早くヒヨコをくわえ縁の下に逃げ込んでしまった。

 

 私は、ただ茫然とただずむのみだった、この時のショックはいまでも忘れられない。

 それからだろうか、私は猫が嫌いになった、特に野良猫は。

 しばらくは、棒をもって野良猫をみると追いまわしたり、Y字形に切った木の枝で造ったパチンコで追いまわしたりしたものである。

 

 後から思ったのであるが、野良猫が現れた時に猫に立ち向かわず、ヒヨコを抱き上げていれば、あるいはヒヨコを失わずにすんだかもしれないと、後悔の念にかられた。

 なんで守りの体制がとれなかったのか、悔やまれてならない。

 なにごとにおいても、攻撃と防御の使い分けが人生にとっても大事なことだと、いまさらながらしみじみと感じる。

 

 それから間もなくして、蓮根も空襲で夜空が昼間のように明るくなることが、しばしばあるようになってきた。これはB29から落とされる照明弾のためである。

 各家庭はもとより、工場でも夜は灯りを消すか、電燈に黒い布などをかぶせて灯りのもれるのをふせいでいた。敵機はどこに目標とする工場があるのか確かめるためだろう、地上が明るくなる照明弾を落とすのである、落下傘でもついているのだろうか、ゆっくりと降りてくる、だからかなり長い時間、地上は昼間のような明るさとなる。

 蓮根の近くには日東金属という大きな工場があったので、この工場が標的にされたのだろう。

 こんなことで、蓮根も危ないと両親は悟ったのであろう。私は6歳年上の叔母とともに、母の実家である栃木県茂木町に疎開することとなったのである。

 

   <少年期T―3>に続く
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