<少年期T−1> 小学校入学
昭和19年4月に、品川の芳水小学校に入学した。
母と一緒に行ったのか、一人で行ったのか、あるいは祖母といったのかさだかではない。
この頃、父は戦争から戻ってきていた、戦地で負傷したためだ。
わき腹と左ひじに銃弾をうけたようだ。その傷が時々うずくのか、母によくもんでもらっていた。父がよく言っていた、「この程度の負傷ですんだのは、この財布のおかげだ」。その傷は皮膚をえぐった程度で、骨には特別異常はないようだった。折れ曲がったコインを私に見せてくれた。
父が出征した後に、我が子である父の無事を祈って、祖母は毎日のように、朝起きると近くの神社にお参りにいっていた。私も、ときには祖母に連れられてお参りにいっていたようだ、神社の階段をとびおりる写真が残っている。2歳ぐらいの写真だ。
祖母は、父がこの程度の負傷で戻ってこられたのは、神社へのお参りのおかげだと信じていたようだ。
私が小学校に入学してまもなく、トシ叔母が亡くなった。18歳だった、叔母は珠算が得意で1級の検定試験に合格したと、聞いた直後に盲腸炎を患い入院したが、1週間ほどで退院し、そのすぐ後に自宅の便所で突然倒れた、心臓マヒとのことだった。
家は二階やであった。父母と私三人が二階で、他の家族は一階で主な生活をしていた。しかし生活の拠点というべき場所は一階だった、もちろん食事などもである。
天井裏には、よくネズミがうるさいほど飛びまわっていた、とくに夜はうるさかった。そのためか、米びつにネズミの糞が入っていたりしていた、たまにはご飯の中にも入っている時があったが、おはしでつまんでそこだけは捨てていた。それほど汚いものという印象はない、ごく当たり前のことだったのだろう。ご飯にはよく大豆が入れられて炊かれていた、いま考えると健康に配慮して入れていたのだろうか、とおもえる。あるいは米が不足していて、その代用だったのかもしれない。
私がはじめての通信簿を学校からもらってきたときのことだ、家族の叔父叔母に向かって、「通信簿に‘可‘があるよ。‘可‘があるよ」と得意そうに通信簿をみせびらかした。
その時である、叔父が「たけし、‘可‘だ‘可‘だと大きな声をだすんじゃない」とたしなめられた。私はいってる意味がよく分からなかったが、あとにしてみれば、‘可‘はあまりよくない評価だったのだ。そのころの通信簿の評価は、優、良、可、だったのだ。
空襲の頻度がますます多くなってきた、「ここも、そろそろ危ないな」という家族同士で話し合っている声がきこえてきた時があったような気がする。
ある時、学校で「空襲警報が出たから、家に帰りなさい」いわれ、家に帰ってきた。
途中から「警戒警報」から「空襲警報」に変わった、サイレンの鳴り方が変わるのだ、より緊迫度を増した鳴り方だ、小刻みに断続的に鳴らす。
家に帰ってきたが、家には誰もいなかった。
サイレンは警報から、もうすぐ敵機が来襲するという「空襲」の鳴り方に変わり、ますます緊迫度を増した。このサイレンが鳴ったら防空壕に入れといわれていたから、私はひとりで防空壕に入った。この時ばかりは、お菓子が食べられるなどといってはいられない、
心細かった。
防空壕に入るとすぐに、西の空に敵機が編隊で現れた、B29だ。みるみる敵機は近づいてきた、空襲のサイレンがけたたましく鳴っている、B29が真上にさしかかったころ、
近くの、立正大学の屋上に設置された高射砲から、一斉にB29めがけて攻撃が行われた、
しかし、高射砲の弾はB29のはるか下で白い煙となっていた、B29は高射砲がとどかない高いところを飛んでいるのだ。
そのうちにB29から、黒いかたまりのようなものが無数にばらまかれた、B29から投下された爆弾なのだ。B29から投下された直後は、黒いかたまりに見えたが、そのかたまりはみるみる大きな物体となって上空をかすめた、あの「キューン」というなんともいやな音を響かせて。
なんとも表現のしようもない轟音とともに、近くに落ちたらしい。
防空壕の天井の土がザラザラと落ち身体にふりかかり、横壁は土のむきだしだが、その土の一部が崩れ落ちた。
すごく怖いという恐怖心はなかったような気がする、後で考えると恐ろしいことなのだが、怖かったという記憶はない。家族が帰ってきてどうしたのか、怖かったと泣きついたのか、まったく記憶にない。
その後、次の日かもしれないが、祖母に連れられて空襲の直撃をうけた場所を見に行った。家から500mぐらいのところだったと思う。崩れ落ちた防空壕に埋まった遺体が運びだされていた、子供を抱いた母親とおもわれる遺体も運び出されていた。
祖母とふたり、手をあわせて帰ってきた。
それでも、日本の国民は戦争を勝利すると疑っていなかった。あるときB29が飛来し、たまたま高射砲の弾があたったようだ、B29が黒い煙をあげだした、B29が落ちていく、すると数人の乗組員らしき兵隊が飛び出しパラシュートがひらいた。
それをみていた私のまわりの大人たちが歓声をあげよろこんでいた、敵機を撃ち落したからだろう。そのうち双眼鏡をもったひとりの大人が双眼鏡をのぞきながら言った、「パラシュートで脱出したなかに、おんながいる、アメリカもおんなを兵隊に使っているようじゃ、やっぱり日本は戦争に勝つのも、もう間じかだな」と満足げに言っていたことを思い出す。
どんなに空襲がひどくなろうと、日本の国民は、日本は戦争に勝つと信じて疑わなかったようだ。信じ込まされていたといったほうがよいのだろうが、その時の私にそんなことがわかろうはずがなかった。
それからしばらくして、わが家は引っ越しをすることとなる。大崎にいたのでは危ないと感じたのだろう。引っ越し先は、板橋区の志村蓮根だった、当時の蓮根は商店などなにもないところだった。二軒長屋の家が数十戸かたまって建っている社宅だった、まわりには店がないので大崎とは比べることもできない辺鄙なところだと、子供心に感じていた。
<少年期T―2>に続く