青年期U―2  大学生活

大学の生活は、友達もできて楽しいものだった。

友達のなかでも自然とグループができてきた。

我々のグループも8人ぐらいいただろうか、竹之内幸一、登倉精一、松下新、矢島、元田、山崎、などであった。はじめての飲み会は、登倉の行きつけの店が神田・神保町にあるというので、その店「八羽」の二階の和室でやることになった。この時とばかりに皆よく飲んだ、

どうやって下宿さきに帰ってきたかわからない、ともかく寝床にたどり着いた、という感じだった。

その後は、松下の紹介で、池袋の「姉妹や」という割烹を利用したこともあった。今のサンシャイン60の近くであった。何といっても、よく飲み歩いた記憶のみがおもいだされる。

 この仲間は、どのグループもそうであるが、各授業で出席率を稼ぐための代弁をよくやった。きょうは、誰それがみえない、となると、気を利かせて代弁をしてくれるのである。教授連中は、生徒の顔まで覚えていることはめったにないので、まず、バレルことはない。我々は、夜学だから、たいがい昼間は職業をもっていた。多種多様である、登倉は小さいながらも自分で鉄鋼の卸業をやっていた、何人か人も使っているといっていた、若いのにたいしたもんだと、一目おいていたようにおもう。元田は、前にも紹介したように自称「パチプロ」である。

パチンコで生計を立て、学費も稼いでいたという変り種である。

山崎は、「いすゞ自動車」に、矢島は、「東京精密」に、竹之内は、「工業技術院」に勤め公務員であった。私は、当時はカメラのシャッターを製造する「コパル」に勤めていた。

 もうひとりの変り種は、松下だった。彼は、昼間の仕事をもっていなかった。親からの仕送りをうけていたというから、我々からみたら本当に羨ましいかぎりであった。親は、九州の行橋市で開業医をやっているといっていたから、財産家なのであろう、と勝手におもっていた。

 全く、個性の異なった面白い人間たちの集まりだったと、年月がたってから気がついた。

 

 そんな、あるときに松下新から、「おれと一緒の部屋にいたものが出て行った、よかったらおれと一緒に生活しないか?」というのである。場所は、池袋から西武線の一駅目の椎名町だという。ここなら、私の勤めと先と学校とのほぼ中間なので、地理的にはまあまあよしである。六畳間を借りているので、ふたりで半分ずつだから、一ヶ月3000円である。これは、いま住んでいる東大赤門近くの部屋と同じ家賃だから、松下と一緒に生活することにした。

 

 引越しは、登倉からくるまを出してもらった。引越しといっても、机ひとつとフトン一組のみである、乗用車一台で済んだ。登倉が自分の会社から出してきたといっていた、「ヒルマン」という外車だった。

 文京区東片町から豊島区椎名町まで、登倉が運転した。私は運転免許をもっていない。椎名町に入ってから、どういうわけか、松下に運転がかわった。たぶん、松下はごく最近運転免許をとったばかりだといっていたから、免許をとれば運転がしたくなるのが当然であろう、それで運転をかわったのだとおもう。

 ところがである、椎名町の街中は道路がすごく狭いのである。左に曲がるところで曲がりそこね、電信柱にくるまの右前部をこすってしまったのである。たいしたことはなかったのであるが、借りてきたくるまである、直して返すしかない。1500円ばかりかかったと記憶している、高い引越しとなってしまった。

 

 ここから、松下との新しい生活がはじまるのである。

 部屋は、二階の六畳間であった。下には、大家さんである園田さん親子の家族が住んでいた。若夫婦と子供ふたり、若夫婦の両親と、その娘さんが住んでいた。西武線の線路ぎわの家だった。だから、最初は、一番電車が通ると目が醒めてしまった。それも、最初の数日だけだった。その後は、電車の振動がかえって心地よいようになってきた。人間は順応性がよい動物だな、と、妙に感心したりした。

 

 私は、7時ちょっとすぎに会社に出かけて行った。西武線を一駅のって、池袋からバスで志村坂上の会社までである。池袋東口には、会社のバスがきている、大型のバスである。会社の経費削減なのであろう、路線バスの運賃を社員に支払うよりも経済的だったのであろう。

確か、一日に朝夕、二便が運行されていたとおもうが、当然、私は後の便で8時就業のすれすれに間に合う。何しろ、会社のバスである、このバスに乗ってしまえば遅刻は無い。交通事情やなにかで、バスが8時に着かなかったとしても遅刻にはならないのである。

 

 バスの横っ腹には会社の名前が大きく書かれている。宣伝のつもりなのであろう、最初は何となくそのバスに乗るのが恥ずかしかったが、それも、ほんの数週間だったとおもう。

 バスの運転手は、日中は乗用車を運転したり、納品の仕事をしていたのであろう。

 こうして、私は、松下が寝ている間に勝手に、ご飯を炊いておかずを作って弁当箱に詰めてもっていったのである。おかず、といっても、たいがい「鯨の南蛮漬」とふりかけであった。とにかく簡単なものなのである。ある時は、ご飯を弁当箱にぎゅうぎゅう詰めにして朝食の変わりにした。会社に着くと三分の一ほど食べた記憶がある、それが、朝食である。

 

 松下のことを「しんちゃん」と呼ぶようになった。理由は、「松下新」で、本来は、「新」を「あらた」と呼ぶそうであったが、しんちゃんの方が親しみやすかったから、そう呼ぶことにした。

 下の園田さんたちもそう呼んでいた。園田さんたちも九州人であった。しんちゃんには、いろいろ飲みに連れて行ってもらった。

池袋西口の屋台のおでんやにはよく通った。可愛いおんなの子がひとりでやっていた。どうしてひとりでやっているのだろう?とおもうこともあったが、詮索はしなかった。そのうちに我々の部屋にも遊びにくるようになった、しんちゃんの誕生日だといっては、ネクタイなどをプレゼントされていた。

 また、東口の「姉妹や」にもよく行った。行ったというより連れて行ってもらった、というほうが正しいようだ。何度かに一度は、私も支払ったが、ほとんどは、しんちゃんもちである。だから、よき兄貴分であった。私より2歳年上だったとおもう。

 

 園田さんの娘さんは「操・みさお」さんといった。我々より少し年下で、ハトバスのバスガイドをやっていた、きれいな娘さんだった。我々は、彼女を「ミーちゃん」と呼んでいた。ミーちゃんは時々同じバスガイド仲間を連れてきては、二階の我々の部屋に遊びにきた。遊びにきたというよりも、飲みにきたといったほうがよいかもしれない。皆んなよく飲んだ。フトンの敷いてある、男たちの部屋にくるのである。こんな文章だけを読んだら、誰しもみだらなことを想像するであろうが、そうでもなかった。フトンの中で戯れはしたが理性はしっかりしていた。守べきことは、守った。

 私の場合は、次の日がきつかった。2〜3時まで、飲んで、次の日は、次の日といっても、もう、当日である。7時に起きて会社に行かなければならない、辛いところである。

 

 しんちゃんは、夏休みや正月休みなどのときは、九州に帰っていた。そんな時は、部屋には私ひとりである。そういえば、しんちゃんの兄弟のことや両親のことは聞いたことが無い。私の境遇も話した記憶がない。きっと、他のことに関心が深く、お互いの境遇には触れることがなかったのかもしれない。

 よく、学校の帰りに椎名町駅近くの蕎麦や兼定食やの「尾張屋」に寄った。ここは、元プロボクシングの世界チャンピオンだった、矢尾板貞夫の従兄弟の店だということであった。定食を食べる前に

コップ一杯の焼酎を飲んだ。焼酎のあの匂いに抵抗があったが、そのうちに慣れてきた、これも、しんちゃんに教えられたことのひとつである。定食前のこの焼酎一杯は手っ取り早く酔えて、何ともいえない気持ちになってよいものだった。しんちゃんに感謝、感謝である。

 

 そのしんちゃんが、今年、平成13年の5月に亡くなったという。

まったく、ショックである。20数年前に、同窓会の帰りに所沢のわが家に泊まっていってくれたことがある。それ以来会ってはいなかった。平成11年に九州を旅行した時に、しんちゃんの住んでいる行橋市をくるまで通った。しんちゃんの住んでいる街だ、と、おもいつつ電話もかけずじまいだった。いまとなっては、悔やまれる。

しんちゃんのご冥福祈りたい。

 何といっても、しんちゃんと過ごした、椎名町での三年間の生活はおもいで深く、私の心の一ページとなっている。

 

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