青年期U―1  大学入学

補欠とはいえ、とにかく中央大学に入学できた。昭和33年で、

20歳のときである。中央は政治経済学部では有名だが、工学部はあまり知られていない。大学の力の入れ方も違うのか、校舎は後楽園球場のそばにあって木造の校舎だった。

国電の飯田橋駅からすぐのところにあったが、私は都電で志村坂上から一直線でこられたので都電で水道橋まで来て、そこから歩いた。

水道橋から飯田橋まで、都電が通っていたが乗りかえがあって、電車がくるのを待つよりもと、歩くことが多かった。

 

大学に入ると、高校の時と同じように目標を失ったようである。

勉強をしなくなったようだ、ただ単位がとれ進級できればよいと考えていたようである。

 

友達はずいぶんできた、遊び仲間である。遊びといっても忘年会などで年に数回、飲みにいくようなものだった。いまの大学生のような合コンなどもなかったし、まして昼間は働いているのだからそんなに遊べるはずもなかったのだろう。

面白い仲間もいた。昼間の仕事がパチンコだという。パチンコ屋にでも勤めているのかとおもいきや、パチンコで稼いで生計を立てているというのである。パチンコのプロだと自称していた。指先でレバーをはじくタイプのパチンコ台であった、どこの店に行ってもとれるというものでもないと、彼は言っていた。

通いなれた数軒の店が目当てだったようである、通っているとその店みせの特長があるのだそうである。今日はどの台が出るかわかるというのだ、店によっては店に入る前に彼にご祝儀をよこし「今日はこれでお引取りを・・・」といわれることもあるといっていた。どこまで本当の話かわからないが。

 

また、山好きな男がいた。彼から山はいい、山はいいという話を散々聞かされた、そして私も山へ行ってみようか、という気持ちになってきた。その男は二年のときに自分から退学した、理由も告げずに。

山の話はあとにすることにする。

 

この頃から、何とか親元を離れ独立して生活したい、という欲望が強くなってきた。自分のいまの給料でどうやれば生計を立てていけるか検討していた。苦しいけれどできない相談ではないという結論に達した、勿論、親からの援助などなしにである。

大学の下宿斡旋部にいき、いろいろ物件を当たった。場所は会社と大学の中間地点がよいと考えていた。

会社は志村坂上である、大学は水道橋となると中間点は巣鴨あたりになる。まず最初にみにいってきたのが、駒込駅近く国電で巣鴨から一駅乗ることになりちょっと不便だったが行ってみた。普通の平屋の家である、間貸しということになる、子供がふたりいる四人家族の三畳の部屋を貸すというものだった。当時は畳一帖が千円だった、三畳というと三千円である、それが相場だった。

しかし、何といってもわびしそうだった。家族のいる部屋を通って自分の部屋に入るというのは。ここは止めることにした。

 

そして、いくつかの物件をみたが、最終的に巣鴨から大学寄りの都電の停留所で「白山下」というところから、徒歩10分ぐらいの東片町というところにある、写真屋の二階の部屋を借りることにした。

8部屋ぐらいあっただろうか、全て三畳の部屋である、各部屋の仕切りはベニヤ板であった、月三千円である。トイレと洗面所は下の写真屋の家族と共同使用であった、勿論風呂は銭湯である。すぐそばに「鏡湯」という銭湯があった。

食事は外食である、近くに大衆食堂があった。夕食の定食はメニューが毎日替わり、焼き魚、煮魚がおもだった。50円である。

朝は、トースターを買って食パンにした、牛乳は買えないので粉の脱脂粉乳を買ってお湯でといで飲んだ。昼は会社の食堂で、夜は大学の食堂で食べることが多かった。大学の食堂は秋刀魚の焼き魚定食が30円だったから、比較的安かったからだろう。

 

下の写真屋の家族は、女の子供ふたりの四人家族だった。ご主人は写真屋で、下宿は奥さんが管理していた。自分の洗濯物は下の風呂場を借りて、手洗いで洗濯をする。たまに奥さんが、「洗濯機を使ってください」といってくれるときがあったが、そんな時は本当にうれしいおもいがした。極まれにではあったが、「残り物ですけど」といって煮物などを持ってきてくれたときなど、さらにうれしいものであった。

なんといっても、独立した自分の生活はよかった。金銭的にはきつかったが、自由ということがよかった。

 

この頃である、山歩きをはじめたのは。はじめての山行は夜行日帰りで、大菩薩峠にいった。新宿を午後11時55分発の松本行きの普通列車である。この列車は山行列車だった、網棚や通路にはリュックサックがところせましと置かれていた。

大菩薩峠は山梨県の塩山駅で降りて、バスに乗る。裂石という大菩薩峠の登山口までである。この山行はひとりである。朝の明けぬうちから歩き出す、登山者は最初のうちは列をなして歩いていたが、段々と散らばっていく、歩くペースが人それぞれだからであろう。

途中、ふくちゃん荘とかいう山小屋があった。なかに入って休憩したかどうかは記憶にない。

頂上付近では、やたら風が強かったことを憶えているだけで、景色などの記憶もない。ただ、夢中で歩いた、という記憶である。そうそう、峠付近に「介山荘」という山小屋があって、そこで少しばかり休憩した記憶がある。中山介山からとった小屋名であろう。

しかし、この時をきっかけに私の山歩きがはじまることになる。

  青年期U―2へ続く
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