<青年期T―1> 初めての就職

 中学を卒業して、はじめての就職だ。昭和28年である。

 青木注射針製造(株)という50人ていどの会社で、志村坂上の銀座通りに面したところにあった。中学の山崎先生がいっていたとおり女の人が多かった。勿論私からみればおねえさんばかりだ、男の人はおじさんが多かったが、人数にすれば数名だったろうか。

 注射針は、こうして造られるのかと感心したり、びっくりしたり好奇心いっぱいで、注射針のできるまでをおっていた。

 

 注射針は、注射器にとりつける柄の部分と針からできていた。柄の部分は真鍮でできていて、これは当時としては最新式の自動旋盤の機械で加工されていた。全自動のカム式の機械だった。直径5mm、長さ5〜6mほどの真鍮の棒材をカム式自動旋盤の後部から入れ、前方には数本のカムでアームを介してあやつられるバイトといわれる刃物があって、これで注射針の柄の部分は一気に削られ、形ができあがる。これに針を取り付けるのだが、針は柄の部分にあけられた直径1mmぐらいの穴に差し込みカシメるのだ。

 カシメとは、柄の部分を外周からタガネのような道具で叩き、針に圧力を加えて針を柄に固定する方法である。カシメの作業は女性数名で、巾30cmぐらいのベルトコンベアーの両側に座り作業をしていた。

 

 私の仕事は、この注射針の柄の部分に1mmていどの穴をあける作業であった。

 この1mmの穴は、いくら最新式の自動旋盤を駆使しても当時ではあけられなかったのである。そこで、この部分は人手に頼らざるを得なかったようだ。

 この穴あけ作業は、卓上旋盤ともいわれていた、ろくろのようなもので1mmの穴をあけるのだ。この作業は少しだけ熟練を要した、なんせ1mmの穴をあけるのだ。それで、馬場さんというおじさんが私の師匠となった。まず、穴をあける刃物のキリの研ぎ方を教えてもらう、この研ぎ方ひとつで切れ味がまったく違って能率に大きく影響する、だから穴あけ作業の基本の基本である。

 直径1mmの鋼線を直径方向に半分ほど砥石で削り取る、断面をかまぼこ形にするのだ。

それから、そのかまぼこ形の先端に二面の刃を付けるのだ。この刃の付け方により切れ味が大きく変わるのだ。最初はキリが折れてばかりで仕方なかった。

 私の隣の席には、先輩のおねえさんがふたりいて、キリの研ぎ方、穴のあけかたを教えてくれた。

 

 この穴あけが終わると次の工程は、柄の部分のメッキとなる。クロームメッキといって、銀色の光沢のあるきれいなメッキだった。その後に針がカシメられるのだ。針の造り方はさらにびっくりさせられた。直径2cmぐらいの鋼管からつくるのだ。この鋼管を横にねかせ、両側から電流を流すと鋼管は真っ赤に熱せられる、それを両端で引っ張り合って伸ばしていく、これを何度か繰り返して1mmていどの直径にするのである。まるで、うどんかそばを伸ばしているように。それから長さ5cmていどに切断して先端に注射針の刃をつけるのである。これがまたおもしろいやり方だと思った、一本、一本、刃を付けるのではない、ちょっとした道具を使い百本近くの針を同時に刃をつける。

 道具というのは、鉄板に薄いゴムを貼り付け、その上に百本近い針を並べてそろえ、その道具を直径1mはあろうかという大きな砥石をもった研磨機に、ある一定の角度をもたせて研ぐのである。ここのある一定の角度が大事なポイントになることを、後でその研磨担当の伊藤さんという先輩のお兄さんから聞いた。

 それは、注射針は大きく分けると、静脈注射、皮下注射、歯科注射にわかれ、それぞれさっきの角度が異なるのだそうだ。皮下注射は最も鋭角で、静脈注射は血管を突き破ってはいけないので、皮下注射に比べれば90度に近くなる、歯科注射はさらに90度にちかくなるのだ。私はなるほどと思って、感心して聞いていた。

 

 この研磨担当の伊藤さんは、後で聞いた話しで、中学校の三年ほどの先輩だということだった。伊藤さんには、昼休みなどでテニスを教えてもらったり、ときには試合でダブルスを組ませてもらったりもした。いまでいうソフトテニスだった。

 その頃すでに、自動化を考えている人がいた。先ほどの注射針と柄の部分をカシメる作業を、こつこつと一人で取り組んでいるおじさんがいた。布川さんといった、不思議と名前を覚えている。

針と柄の部分を自動的に供給して、ハンマーで叩いてカシメを自動でやるのであるが、なかなかうまくいかないようだ、いろいろ実験をしてはやり直していた。少年の私にも、この布川さんの取り組み姿勢の熱心さが伝わってきていたのだろう、いまでも憶えているくらいだから。

 

 また、一番気になったおねえさんが、検査のコンベアーの前に座っていた。ほっそりとしていて、お人形のような顔をしていた、当時の私にはすごく美人にみえた。須賀さんといった、あとで知ったのだが中学校の先輩だということだった。たまに声などをかけられたりすると、胸がドキドキしたのを覚えている。

 秋には、従業員が一番楽しみにしていた、一泊旅行があった。この時は、箱根から熱海に一泊の旅行だった。どうやって箱根にいったのか、あまり記憶にないが電車で行ったような気がする。箱根では、強羅で銭湯のような温泉に入った、混浴だった。会社のおねえさんがたと一緒に入ったのだが、どんなプロポーションだったかまったく覚えていない。また、一緒にいったおじさんたちがいっていた、温泉の片隅にいた女性たちがいたが、ちょっと変わった髪形をしていたのをみていっていた、あれは芸者さんたちだよと。数人のそれらしき人たちもいたようだが、幼い少年だった私には、関心がなかったようだ、今おもえばもう少し観察力を発揮させておけばと、残念な気がしてならないが。

 

 泊まったのは、熱海でも一流の大野屋旅館の隣にある宝金閣という旅館だった。卓球台があって、中学校で磨いた卓球の腕前を披露しようと、意気込んでいたことを少し覚えている。

 青木注射針にいたのは丁度一年間だった。一年間ですごく貴重な体験をしたように思う。

 当時の給料は月に4500円だった。給料は全部家に入れ、小遣いというかたちで親から貰っていた、そのなかから学費や昼食代をまかなっていた。小遣いとしていくら貰っていたか記憶にはないが、4500円以下であることは間違いない。

 会社を辞める最後の日に、あの美人に見えた須賀さんから声をかけられ、ドキッとした。そして小さな紙切れを手渡された、その紙切れは栞だった。栞には詩がかかれていた、はっきりいってきれいな字ではなかった。若山牧水の詩だろうか「白鳥は悲しからずや・・・」

とかかれていた。しばらくの間この栞を大事にしまっておいたようだ。

 

  <青年期T―2>に続く

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