<少年期T−8> ぬれ衣

 

さて小学校生活であるが、その当時はまだ給食などはなかった、たまにアメリカからの配給品の脱脂粉乳をといだミルクが配られたりした。食べ物が極端に不足していた時代だったから先を競ってむさぼり飲んだ。いま飲んだらとてもまずく感じるようなものだったとおもう。牛乳など一般には手に入らない時だから、脱脂粉乳も貴重な栄養源だったのだろう。

親たちは弁当作りにも苦労したのだろう、弁当にさつまいものふかしたものを持っていったこともあった。アルミニューム製の弁当箱を持っていけるものはよいほうだった、人によっては麦わらで編んだ弁当箱を持ってくるものもいた。

このころはよく食べ物の紛失事件が多かったような気がした。ある時、私にとんだヌレギヌがかけられる事件が発生することになる。

 

これもアメリカからの配給品で生徒全員に乾燥肉が配られた。いまのビーフジャーキーのようなものだった、キャラメルの箱2ケ分の大きさだった。

ある生徒が「私の乾燥肉がなくなった」と先生に訴えた。

先生は組の生徒全員を教室の後ろに立たせ、一人一人顔色をみくらべていた。

その後なにごともなかったように授業がすすめられ、その日の最後の授業が終わってから先生が10数名の生徒に居残るようにいった。その中に私も入っていた。その時はもう乾燥肉の盗難事件のことはすっかり忘れていたから、なんで居残りなのかまったくわからなかった。ひょとしたら、なにかほめられるのではないかとも期待が少しはあった、居残り組は講堂に集められた。

10数名は横一列に並ばされ、先生は教室の時と同じように一人一人顔色をみくらべていた、そして3人を残して他の生徒は帰された。3人の中に私は入っていた。

いよいよ3人が選ばれたか、と期待がふくらんだ。ところが二人が帰され私一人になった、なにか一人になると期待の反面、なにかわからないが不安も広がってきた。

結果は不安のほうが的中したのである。

二人きりになると先生は初めて口をひらいた。「○○の乾燥肉をとったのは、お前だろう」と、私はあまりのことにあ然とし、これは何と言うことだろうと一瞬声がでなかった。

もちろん、私は「ぼくは、とっていません」といった。ところが先生はそんな私のいうことを、聞いてはくれなかった、「お前の顔に書いてある」といって私の言い分はこれっぽっちも聞いてはくれなかった。先生は「お前の顔に書いてある」の一点張りである。

そして「早く家に帰りたければ、とったといいなさい。そうすれば帰してあげるよ」。時間もずいぶんたったし、心細くなってきた、家に帰りたいと思い出してきた時だったから、この先生の言葉はきいてしまった。

とったといえば帰してくれるなら、とったと言ってしまおうか、と思うようになってきた。私はとうとう言ってしまった、「ぼくが、とりました」と、「そうだろう顔に書いてあるもの、早く言えばよかったんだよ」、この時の先生の得意そうな顔がまた忘れられない。先生は「お前のその乾燥肉を渡しな、○○に返すから」といって乾燥肉はとられてしまい、私の口の中には入れることができなかった。このことがずっと心の底につかえ、いまでも後悔の念にかられる。

 

しかし悪いことだけではなかった、私の描いた写生画が教室に張り出されたことがあった。絵をかくことは得意ではなかったから、初めて表彰状をもらったような気分だった。学校近くの西台というところにボウヅ山という30mほどの高さで木のない山があり、子供たちの愛称で「ボウヅ山」といわれる山を写生したものである。

 

私はよく宿題を忘れて教室の後ろに立たされた。この頃の宿題忘れのバツは、ただ立たされるだけではなかった、水の入ったバケツを頭上高く持ち上げて、腕でささえて持つのである。だんだんと腕がしびれてきて、腕が曲がってバケツの底が頭についたりすると先生のビンタがとんでくる。だから必死でバケツをささえる。ある時、4〜5人がいつものようにバケツをささえ立たされていた、その中に私もいた。その中のひとりがお腹がすいてきて、お腹がへっこんできたのかズボンがするするっと下にさがってしまった。

ズボンは半ズボンだったが、その下にはパンツなどはいていなかった。この頃はパンツをはいていない子がけっこういたのかもしれない。

その生徒は先生にしかられるのを恐れてか、そのままの姿勢を保っていた。

生徒はみんな後ろを向いている形なので気が付いていないが、先生がそれに気がつき、さすがの先生も静かにその生徒のそばにより、ズボンを上げるように指示し、多くの生徒の目にとまることなく、ことなきをえた。このことを知っているのは、宿題を忘れ立たされていた数人の生徒と先生だけである。

 

運動会は楽しみだった、徒競走はほとんど2着だった。背の小さい順に走るから、私はたいていトップの組になった、小さいわりには速かったのかもしれない。しかしどうしても1着にはなれなかった、強敵がいた。対馬朝男だ、彼にはどうしても勝てなかった。彼は縄跳びも上手だった、二重回しは何百回、三重回しも何十回かできた、縄跳びの天才だとおもえた。私は二重回し50回がやっとだった。

 

小学校も高学年になると運動会も騎馬戦や棒倒し、マラソンなども種目に加わった。

マラソンに初参加して自分の新発見をしたことが記憶に残っている。5,6年の男子が参加し五本の指の中に入ったことだ、自分は長距離に向いているのだ、「長距離は苦しいところもあるがそれを乗り越えると、大きなよろこびが味わえる」のだということをしった、これはとても大事なことなのだ、といまでも思っている。

棒倒しでは思い出がある、騎馬戦とともに男子種目の花形だ。白組、赤組に別れて相手の2mほどある棒を早く倒した方の組が勝ちという競技である。自分たちの棒を倒されないように守るものと、相手の棒を倒す役割の攻めるものに別れる。自分たちの棒を守るため体格のがっちりしたものが棒の中心に座って、そのまわりをさらに10数人でやまになって棒を守る。その他のものは攻めにまわった。三回勝負をして二回棒を倒した組が勝ちというルールだ。

一回目はわれわれの組が負けた、私は負けながらも相手の攻め方を観察した。

相手の攻めは先陣をきって走ってきて、われわれの守りのやまをかけあがり、棒に飛び移り、棒の先端のほうにぶら下がるようにして倒すのである。

その攻めの中心は、内田哲雄だった。私の目から見ても彼の身体は強靭だった。私は考えた、彼のじゃまをして攻撃を遅らせようと。私も攻撃側だが、彼のように守りのやまを乗り越えて、棒にたどりつくことは到底できない、だとしたら攻撃のなかでも守備的になろうと、とっさに考えた。彼の攻撃を少しでも遅らせるように邪魔をしようと。

そして二回戦の合図がなった。私の目標はただ一点、内田哲雄の走ってくる方向を見定めた。その方向に私も走った、彼の身体がぐんぐん迫ってきた、彼の身体が大人のように大きく、がっしりとみえた。私は彼の足もとを狙って果敢にタックルをこころみた。

ところが私のタックルはみごとのはねのけられた。私のタックルはからぶりではなかったはずである、その証拠に私のむこうずねはひどく痛く、またはれていた。彼はなにごともなかったごとく、われわれの棒を攻撃していた、彼の足はやっぱり強靭だったのだ、勝敗のゆくえは記憶にない。

 

学習面では、国語の時間には教科書を先生が生徒に読ませ、読んでいる途中で間違えたりつかえたりした時に、すかさず「ハイ」と声を出して手を上げる、そして間違えた個所を指摘して、その後を指摘した生徒が読みつづけるのである。生徒の読書力をつけさせるために先生が考え出したやり方なのだろう。私などは4行か5行ぐらい読んだところですぐ間違えたりつかえたりしてしまって、次の人にバトンタッチである。

しかし、ここにも天才はいるものである。このころの私は努力という言葉を知らなかった、なにごともずばぬけて優秀な人をみると、その人が天才にみえた。努力したり、訓練をして優秀になったことを知らなかったのである。

ここでの天才は、柴田嘉基である。彼は何頁も間違えずに、つかえもせずに読んでいくのである。なんで間違えずにこんなにも長く読みつづけられるのだろうと、不思議でならなかった。彼は天才だ、で納得していた。努力や訓練をすれば少しは彼に近づけることを、そのころの私は知らなかった。

 

        <少年期U>に続く

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