<少年期T−4> 母の死

 

そんな疎開生活をおくっている昭和20年7月中旬のある日に、一通の電報が舞い込んだ。「ハハキトク、スグカエレ」という内容だった。すぐ東京に向かうことになった、しかし戦争のはげしい時である、軍事物資を運ぶ列車だけで、人を乗せて東京まで行く列車はなかなかなかったのだろう、叔父があちらこちらに問い合わせたが、なかなかキップを手に入れることができなかったらしい。電報が届いてから2,3日してからだと思う、東京に出発したのは。

キップはすぐ近くの踏切番の人に工面してもらった、と叔父が言っていた。

しかし、その列車は貨物列車だった。貨物列車でも天蓋車というのか、屋根がついていて、両側に横に引くとびらがついている貨車だ、だがとびらは外されていた、そこには丸太ん棒が横に一本、人が落ちないようにだろうか、取り付けてあった。

そんな列車に叔父と二人で乗り、東京に向かった。向かう先は、志村の蓮根の家だが、どこでどう乗り継いでたどりついたのか記憶には全くない。普通は、下館で乗り継ぎ小山で東北本線に乗り換え、赤羽で降りて、バスに乗り志村まで来るのだが。

 

叔父と二人、蓮根の家についた。家はすごく静かだった、四畳半の部屋に蚊帳がつってあった。母が寝ているのかとのぞいたが、だれもいなかった。母はどこにいるのだろうと、あちこち探してみた、しかし母の姿はどこにもみいだせなかった。私には「ハハキトク」の意味が理解できていなかったのだ。しばらくして、「武のおかあさんは、死んだのだよ」と聞かされた。私はキツネにつままれたような顔をしていたと思う、母の死ということがよく理解できないのだ、母が死ぬはずがないと思っていたのだろう、死んでもどこかに横たわっているはずだと思った。

私はだれかに質問したのかもしれない「母は死んだとしても、どこにもいないじゃないか」と、子供心に遺体がないのはおかしいと思ったのだろう。

母の死は信じられなかった。それからまもなく、母はだいぶ前に死に、葬式などすべて終わって、かたづいた後だったということだった。

 

「おかあさんは、その中だよ」といわれ、白い壷のようなものを指差されたが、私にはまったく信じられなかった、そんな小さなところに母が入れるわけがないと。

そんなわけで、私は母が死んだと知らされても、そんなに悲しいとも思わなかったし、涙も流さなかったような気がする。母の命日は、713日だと後になって聞かされた。

それからまもなくして叔父とともに茂木町に戻ったのだが、どんな列車でどのようにして戻ってきたのか、記憶に残っていない。

そして再びもとの疎開生活に戻ったのである。学校は夏休み中だったと思う。

 

しばらくして、学校から登校指示がでて茂木小学校の校庭に集まった、夏の強い日差しの暑い日だった、8月15日である。そこでラジオで天皇陛下の話しを聞き、これで戦争が終わったのだと人々が話しているのを聞き、日本が戦争に負けたことを知らされた。

戦争は終わったのか、と思っただけでとくに感慨はなかったような気がする、小学校2年生の夏だった。

 

<少年期T―5>に続く
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