青年期U―3  山歩き

さて、間にしんちゃんの追悼が入ったが、再び大学の友達から影響を受けた、山登り、に移ろう。
 二度目の山は、どこへ出かけたかはっきりとは覚えていない。

丹沢の山か、奥多摩の山だとはおもうが・・。

最も安くいけるのが、丹沢だった。新宿から、一直線だし電車賃もやすい、バスにも乗らずに「渋沢」の駅から、歩き出す。

大倉尾根、通称「バカ尾根」と呼ばれていた。ここを夜中に歩くのである。だらだらと続く幅広の尾根道で、何の面白みもないので、バカみたいに歩かなければならない、ということから「バカ尾根」の名がついたと聞いたが、真意のほどは不明である。

 

ここを登りきると、「搭が岳」の山頂にたどり着く。山頂には山小屋がある、ここで仮眠させてもらう。

ここからは、丹沢山、蛭が岳、焼岳と縦走して、道志川ぞいの青根の部落に下りることになる。そして、ここからはバスで厚木にでるのである。殆ど寝ないで歩くのであるから、この頃は体力があったのであろう。何だか、無性にガツガツ歩きたい時がよくあった。         こんな時は、このコースはうってつけの山歩きができた、無論単独行である。

 

こうして、この山のよさを知ると、会社の職場の仲間を誘って同じコースを歩いた。自分が、よい山と感じれば他の仲間も、よい山と感じるとおもったのであろう。だから、同じ山を何度も登った。

 

丹沢以外では、雲取山、奥多摩の川乗山、大岳山、御前山などによく出かけた。また、八ヶ岳にも登ったが、夜行日帰りの行程しか組めなかったので、八ヶ岳でも一番西はずれの「権現岳」で降りてきた。中央線の小淵沢駅で降りて、そこから「編笠山」めざして夜どうし歩くのである。この頃は本当に若かった、体力もあったとおもう、22歳であるから無茶な歩き方もしたようだ。

 

一番の山仲間は、同じ職場の鏑木紀一だった。彼とは、いろいろなところに登ったが、印象にあるのは、何といっても南アルプスの甲斐駒ケ岳から仙丈岳への登山である。韮崎で列車を降りバスに乗って神社の前が終点で、そこでバスを降りていきなり登りになった。

登り出したのは夜で、途中で野宿の予定であった。夏であるから、寒くはなかった。

途中での野宿は森林地帯の藪の中だった。雨具をかぶって横になったが、なかなか眠れない。風で木が揺れ、葉音がうるさい。

それでも、2時間ぐらいは寝たのだろうか、まだ、暗い内にまた歩きだした。甲斐駒ケ岳へは、鉄ハシゴや鎖場などがあり急登続きである。摩利支天の岩峰を眺めながら、黒戸尾根を登る。そして、頂上は天気にも恵まれて絶好であった、標高2967である。ところが、景色はあまり記憶にない。北岳や富士山、八ヶ岳なども眺められるはずであるが。

景色を眺めるゆとりがなかったのであろうか、頂上で撮った写真だけが残っている。

 

ここからは、仙丈岳に向う。途中、北沢峠の長衛小屋で一泊の予定である。小屋には素泊まりである、食事は自炊だ。鏑木は、私が作った「豚汁」がうまいといってくれた、ここだけ妙に記憶している。次の日は、荷物は小屋においたまま仙丈岳を往復してきた。そして、伊那がわの戸台という部落に下った。いまでは、バスが出ているが、その頃は、戸台まで歩かなければならない。胸突き八丁の急坂を下り、戸台川の河原、岩だらけの道というか、河原を延々とあるいた。

戸台からは、バスに乗ったが、どこの駅まで行ったか記憶にない。

辰野駅で乗りかえたことだけを覚えている。辰野駅では、えらく列車の待ち合わせ時間があった。それで、鏑木と相談して、会社の同僚である、沢田八重子という女性の家を訪ねることにした。

この山行の前に、沢田さんに冗談半分に、家に寄るかもしれないよ、ということを行っておいたものとおもわれる。はっきりは記憶していないが、そうでなければ、あまりにずうずうしすぎる。

沢田さんの家はみつけたが、本人はいなかった。母親が出てきてくれて、会社の話しでもしたのであろう、お茶をご馳走になって、辰野駅に戻った。ただ、それだけのことである、沢田さんとは、特別な関係はなかったことを申し添えておく。

その他、鏑木とは、よく二人で山にでかけた。山行のことは、詳しくは、「山歩き」(人生記とは別であるが)の項をご覧いただきたい。

   青年期終わり
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