<青年期T―7> 進学

高校四年になるころから、級友のあいだから進路について話題になるようになってきた。夜学の高校は四年間なのである。

大学受験と決めているものもいるようだし、私も進路について考えざるを得なかった。会社勤めも今のままの、機械加工をやっているだけでは先々あまりにも夢がないように思えた。中学を卒業しすぐに就職したが、機械加工など機械に縁があったためか、機械設計に関心が強かった。昼間勤めていた会社にも設計室があり、そこで設計をしている人をみるとかっこよさを感じていた。

 

大学へ行こうと決意した。行くとしたら工学部だ、しかも機械学科だと決めていた。それまでは、勉強も何とか単位をとり、すれすれで進級していたが、そう決意してからは俄然目標が決まったためか、勉強に力が入った。

高校を卒業して、その後学校に行かなくなったら、家に帰らなくてはならない。それがいやだった。家には帰りたくなかった、家には寝るだけに帰ればよかった。こんなことも、大学に行こうと決意した一因だった。

色々と大学の内容、とくに授業料や入学金を検討し、明治大学の工学部を狙うことにした。夏休みや正月も懸命に受験勉強をして頑張ったつもりでいたが、それまでの不勉強がたたったのであろう、結果は受験失敗ということになった。

それからは、さらに一年先をめざして会社勤めが終わると、北園高校の地下の図書室に毎日通った。家では勉強に集中できないという理由にした。図書室への足は、中古の自転車を購入して、それで通った。都電の定期代を節約するためだ。高校を卒業しているので学割はきかないからだった。

図書室には通ったが、ときにはさぼることもあった。高校の正門前に「北園」という食堂があった、ときにはそこに行ってラーメンを食べてテレビを観させてもらって何時間か過ごすのである。そこのおばさんも心得ていて、いつまでいても何もいわない。ラーメンは40円だった、だからたまにしか食べられない。ときにはタイ焼屋にも行った、美味しいタイ焼屋があった、一個5円で一皿四個、20円だった。お金のないとき、空腹を満たすにはこれはよかった。だが、ときには胸焼けがするときもあった。

 

会社での仕事はカメラのシャッター部品、小さな歯車の軸加工の単純作業だったから、目の前に英語の単語集をおき暗記していた。

いまでこそ、そんなことは通用しないとおもうが、その頃は廻りも大目にみてくれていたのだろう。ありがたいことである。

そうして、曲りなりにも、一年間頑張った成果を問われるときがきた。今度の受験は、授業料の安い中央大学の精密工学科にした。もちろん自分自身で決めたのだ。授業料は自分で稼ぐのだから。通学も水道橋だったから、都電で一直線だったので便利だという点もあった。しかし、結果は今度もNOとでた、試験のできはまあまあだったので、多少の自信はあったのだが・・・。

試験結果の発表のとき、どういう訳か父が一緒についてきた。私の受験にはほとんど関心を示していなかったが、それは自分の思い違いで実際には少しは心配していたのかもしれないと、このときおもい少しばかりうれしい気持ちになった。しかし、受験失敗となるとうれしいなどといっていられない。不合格と知ると父は何をおもったのか、大学の総務部にいってくると言い出した。訳がわからなかったがしばらくして父は戻ってきた。何か学校にかけあってきたのだろうが、そんなことが通じるはずもなかったが、父の行為はうれしかった。

その帰り神田の神保町にある大衆食堂で食事をした。父は酒をたのんだ記憶がある、父と二人で食事をするのもかなり久し振りなような気がした。

その時、父はまだ一年やるのかと聞いてきた、私はうなずいた。もう一年受験のために頑張るのかという意味だったらしい。父はその私の意見に反対だった。

いまからでも、もう一校受験したら、というのである。結局私も少し迷ったが、まだ間に合う大学を受験することにした。新宿にある工学院大学だった。

願書を出し受験の日を待っていた。

そのときである、中央大学から入学許可の連絡がきた。一瞬何のことかよく理解できなかった、ようするに補欠で合格したのである。補欠だろうが、なんだろうが入学できればいいんだから、工学院のほうは受験せず中央に入学手続きをとることにした。

こうして大学に通うことになった。勿論、入学金や授業料は自分で工面するのである。

   青年期Uへ続く
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