<青年期T―5> 映画に夢中

夜学の高校二年になったころから、学校をさぼることを憶えた。

学校をさぼっては、映画を観に行くのだ。映画三本立てで50円だった。ラーメンが一杯40円の時代である。映画も時代劇を好んで観ていたようだ。俳優は、東千代之介、市川歌右衛門、高田浩吉、片岡千恵蔵、岸恵子、津島恵子、などの名前が記憶に残る。

会社を終わって、学校には行かず映画館に直行して三本立てを観ると、丁度学校が終わる時間になるのである。勿論、学校をさぼって映画を観てきたことは、家ではいっさいなにも言わない。

 

映画館は、いたるところにあった。志村坂上にも三館あったし、板橋、大山、滝野川など、どこにでもあったのである。もっとも、テレビもない、娯楽といえば映画ぐらいしかなかったのである。

「旗本退屈男」とか「南総里見八犬伝」などのシリーズものや「羅生門」など難解な内容の映画もあったが、全部白黒の映画で、カラーでは「カルメン故郷に帰る」というタイトルで、高峰秀子が主演だったと思う。内容は全然憶えていないが、すごくきれいな画面だったことを憶えている。カラーとはいわず、「総天然色」映画と呼んでいた。

邦画で一番印象に残っている映画は、なんといっても黒澤明監督の「七人の侍」だった。志村喬の名演技がひかる、勿論三船敏郎もいた。

高校三年になってからか、洋画のロードショウを観にいくようになってきた。ロードショウとは、洋画の封切り映画のことをいっていた。ロードショウ上映映画劇場は、東京、有楽町界隈に集中していた。「有楽座」「日比谷映画劇場」「スカラ座」や日劇の隣の「ピカデリー」などであった。入場料は150円だった。邦画の一般的映画館の入場料が三本立てで50円だから、ロードショウはいかに高かったかがわかる。学生の私には大きな負担であったが、ロードショウという言葉に魅せられて、月に一度程度だったとおもうが、詰襟の学生服姿で有楽町まで一人っきりで出掛けていた。

国電は、巣鴨、有楽町間が10円だった。今は、山手線というが。

志村から、巣鴨までは都電で行く。

 

ロードショウで、憶えている映画のタイトルは、デズニーの「砂漠は生きている」「ファンタジア」、フレッド・アスティアーの「足長がおじさん」、「フレンチカンカン」、ジェイムス・ディーンの「エデンの東」「理由なき反抗」などなどであった。

俳優では、ジョン・ウエン、ゲリー・クーパー、グレゴリー・ペック。女性では、グレィス・ケリーがきれいな人だなと、密かなファンだった、ソフィア・ローレンやマリリン・モンローなども、めにとまった。

映画のパンフレットなど集めたものだ。

ある時、会社は休暇をとって浅草に遊びにいった。ひとりでである、

遊びといっても映画などを観ることが遊びであった。このときは浅草の「国際劇場」にいったのである。一度、父に連れられて行ったことがあった、それを思い出しまて、あのショウーを観たいとおもい出かけたのだった。ここでは、「春のおどり」「夏のおどり」「秋のおどり」とその季節に応じて出し物が替わったが、いつもラインダンスが呼び物だった。若い女性が広い舞台に整列してのラインダンスは高校生の私を魅了した。

それから、舞台装置があっという間に替わる仕掛けには、度肝を抜かれたおもいがした。一瞬の暗転で舞台がまるで替わっているのである、手品でもみているようであった。それから、舞台の床下から人間が登場する、せり上がりである。舞台の床から登場人物が出てくるのである、高校生という若者の心をどきどきさせるに充分な仕掛けであった。有楽町の「日劇」でも同じような出し物があったが日劇には行ったことがなかった。

その時の帰り道である、浅草から上野駅までひとりで歩いているときに一人の警察官に呼び止められたのである。交番に入っていろいろ聞かれた。学生服を着ていたから、学校はどうしたのか、と聞かれた。私は即座に、夜学だから昼間は会社で、今日は休暇をとって浅草に遊びにきたことを伝えた。警察官は納得したようだが、今は春先で、家出人が多いそうである、とくに学生の。そう言って、私を家出少年ではないかとおもったようである。

 

この頃である、はじめてコーラというもの口にしたのは。場所は「帝国劇場」のロビーでであった。何を観に行った時かはおぼえていないが、50円も出して飲んだのを憶えている。ラーメンが40円だったから、どんなにうまい飲物かとおもって買って飲んだが、お金を捨てたおもいがしたことを思い出す。飲み薬を飲んでいるような味だったからである。それでか、いまだにコーラはすきになれない。

 

高校二年ぐらいになるとテレビがだいぶ普及してきた。普及といっても一般の家庭ではとてもむりで、商売をしている食堂やそば屋などにはたいがいテレビが備え付けられていた。勿論その頃は白黒である。学校で出たくない授業のときなどそば屋によってテレビを観たりしてわざわざ遅刻をしたりしたことがあった。

そんな時はたいがい、大相撲を観戦していた。そば屋で「たぬきそば」を一杯食べて、後は大相撲観戦である。当時は栃錦の大ファンだった。手に汗をして応援していた。小兵の横綱といわれていたが、関脇時代から応援していた。特に大内山という長身の力士を土俵際で逆転の首投げで破った一番が最も印象に残っている。

 

その後、若乃花が出てきて栃錦と戦ったが、勿論栃錦を応援した。

どうしてか、若乃花は好きになれなかった。

この頃である、力道山が活躍したのは。力道山やボクシングの世界選手権試合のときなどはテレビのある食堂、そば屋は特別営業となる。食べものは売らずにテーブルを片付けて、イスだけにして大勢の人に入ってもらって、テレビ観戦の小劇場と化すのである。

ジュースが一本ついて50円だとおもった。

ボクシングは白井義男の時代である。力道山とルーテーズとの試合など固唾を飲んで観戦したものである。

   青年期1―6に続く
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