<青年期T−4> 家庭内

 家庭では、私が高校二年の時だった。私の大好きな祖母とおねえちゃんと呼んでいた叔母が、家を出て行くことになった。家では、嫁、姑、小姑のいざこざが絶えなかった。

そんなことからか、祖母と叔母は独立した生活を決意したのだと思われる。

私は、祖母に私も一緒に連れて行ってくれと頼んだ。しかし、祖母はそれをはっきりと拒否したのである。考えてみれば、当たり前である、一応両親がいるのである、それを祖母が孫を連れて独立した生活を送れるわけがないことは、私にもすぐに理解できた。

その後は、私は何も言わなかった、非常に寂しい思いがしただけだった。

祖母は私の育ての母だと思っていたから。

 

祖母と叔母は、東中野にアパートを借りて独立した生活を送るようになった。

叔母は、東京ガスに勤めていた。何ヶ月か経って、私は祖母に逢いたいと、そのアパートを探し訪ねてみた。祖母だけがいた、祖母はアパートのドアーを開けてくれたが、部屋には入れてくれなかった。多少迷惑そうな顔つきだったのを覚えている、以外だった。

「よくきたね!」とよろこんでもらえると思っていたから、まったく意外のなにものでもなかった。

多分、あとで考えれば、祖母の立場としては、孫をいつまでも甘やかしてはいけない、という思いから、あえて突き放すような態度をとらざるを得なかったのだろうと思える。

その後、私はそのアパートを訪れることはなかった。

 

祖母がいなくなり、私の家庭での生活に大きな変化はなかったようだが、夕食の変化はよく憶えている。夜学から帰ってきての夕食である、祖母がいる時は暖かいご飯が食べられた、しかし祖母がいなくなってからは、冷たくなったご飯を自分で釜から茶碗によそった。それもおこげの時が多かった、おかずも味噌汁も冷たかった。

祖母も叔母もいなくなったので、北側の三畳の部屋は私ひとりで使えるようになった。このことが一番うれしかったことだろうか。

 

父と継母が楽しそうにはしゃぎ声をだしたりしていると、無性に腹が立った。「祖母や叔母をおいだしておいて、なんだ!」という思いが強かった。

ある時、その両親の部屋に向かって怒鳴ったことがあった。「静かにしてくれ!、俺は勉強してんだ」と、父が怒鳴り返してきた、「ここは、おれの家だ。お前にそんなこと言われる筋合いはない」と、この時から、「この人はもう俺の父ではない」とこの時は思った、まだまだ、私は人間的に未熟だったのだろう。

ある時、父が私に話しがある、といって二人でちゃぶ台に向き合った。何かと思ったら、父が「お前の日記を読んでしまった」というではではないか、私はこの時はじめて、頭の中がひっくり返るような状態になった。その時、私はちゃぶ台を両手で何度も叩いて悔しがった。「何で人の日記を無断で読むんだよ!」と怒鳴った。その剣幕に父もびっくりしたのか、「お前のことが心配で、お前が何を考えているのか知りたかったんだ」と言っていた。

「これが継母に見られたらどうするんだ」とも父は言っていた。「見られたっていいじゃないか」といったが、その日記の内容はそうとう継母の気に触ることが書いてあったと思う。

だから父が言ったのだろう。

それからの私の日記は普通のノートに書き、目立たないように書くようになった、また人に見られてもよいような内容になったようである。

 

家では、ゆっくりとくつろげなかった。体調の悪いときは困った。家で寝ているのも苦痛で、そんな時はよくチヨ叔母のところで休ませてもらった時がよくあった。叔母は歩いて15分ぐらいの志村三丁目に住んでいた。子供は三人いた。

学校が早く終わった時や、休みの時などは家には帰らず、叔母の家によらせてもらった。

叔母の家の方がくつろげるのである。叔母の連れ合いの進八郎叔父もそんな私を暖かく迎えてくれた。私も、たまには少しばかりのお土産を持っていくこともあった。たいがい、甘納豆かカリントウであった。新聞紙で作った袋に入れる量り売りで買ってくる、50匁といって買ったと思う。50匁はいまの約200gだろうか。

 

その叔母夫婦は熱心な創価学会信者だった。だからよく夜は会合に出掛ける。そんな時、たまたま私が遊びにきていると、「たけしちゃん、留守番していて」といって三人の子供を残して出掛けて行く。私は、留守番と半分は子守りである。子供たちは、よく腹巻をしていた、よくお腹をこわすらしい、それでいつも小さな座布団のような手製の腹巻を巻いていた。この腹巻を子供たちにさせるのは、私の仕事?となる。

 

祖母は、東中野のアパートには一年ぐらいしかいなかっただろうか、少し経つと横浜の鶴見にいる惇叔父のところに同居するようになった。そこには私はよく出掛けた、勤めが休みの時など電車に乗り継いでである。鶴見駅から歩いて20分ぐらいのところだった。斎藤ドラムという会社の社宅と聞いていた。叔父の連れ合いのヒサ子叔母もやさしい人で、ここには行きよかった。祖母もやさしく迎えてくれた。勿論、両親には内緒で出掛ける、祖母のところに行くというと、よい顔をされないということを感じていたからだろう。

叔父の家は、京浜急行の生麦駅からが近かったが、電車賃の節約で鶴見駅から歩いた。

総持寺の高い石段を見ながら歩き、右側に叔父の家があり裏側は小高い丘になっていた。

よくお風呂に入れさせてもらったり、帰りにはお小遣いまで貰ったこともあった。

 

母の実家である、栃木県の茂木町にも両親には、学校の旅行とか言ってでかけた。会社が終わってから、赤羽から東北本線に乗り、小山で水戸線に乗り換え、下館で真岡線の最終列車に乗り終点の茂木には9時30分ぐらいに着いたと思う。終列車で着くことは、葉書で連絡してあるので、叔父たちは列車に向かって手を振ってくれる。叔父の家から列車はすぐ前に見えるのである。私も列車の窓を開けて手を振る。夏には、列車の窓越しにも蛍の飛び交う光が見え、この光景を見るのが茂木の田舎にきたなという実感が湧き、大好きな風景だった。

帰り際には、決まって叔父はお米を持たせてくれる。家には内緒できたから、というとチヨ叔母さんのところに持っていけ、といって持たせてくれた。

本当は、このお米のおみやげは重くて迷惑だったが、そんなことは言っていられなかった。

 

  <青年期T―5>に続く

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