<青年期T−2> 演劇部

 小高い城山の山の上は、われわれ子供たちが絶好の遊び場としていた、木が生い茂りうっそうとしていたところを、きれいに造成して、「コパル光機製作所」という会社が事業拡大のために新工場を建設した。

 松崎の叔父の紹介もあって、このコパルに入社できることになった。この会社はカメラのシャッターを専門に造る会社だ。カメラはこの頃から急速な需要の拡大がでてきて、造れば売れるという時代だったようだ。カメラのシャッターというのは、レンズの次に重要な部分でシャッター速度や露出量を決める絞りを調整する機能をもっている。

 このシャッターを商品として、カメラ会社に売るのである。

 当時のカメラ会社は、ワルツ、ヤシカ、キャノン、コニカ、ミノルタなどだった。 会社の規模も、青木注射針に比べても従業員の数も十倍以上の、数百人だった。

 私は、シャッター部品の小さな歯車の軸受け部を削る仕事をすることになる。ベンチレースという卓上旋盤を使ってである。ここでも卓上旋盤を扱う職人さんに仕事を教えてもらった。まず、バイトと呼ばれる刃物の研ぎ方からだった、グラインダーで荒く刃をつけその後砥石で仕上げるのだ。やはり刃の角度が一番重要だった。

 コパルの工場は、鉄筋コンクリート造りで一階は比較的大きな機械の工場でプレス機械などが占めていた。二階はわれわれの卓上旋盤、歯切り盤、研磨機などの小形機械の職場であった。三階は、シャッターの組み立て、検査などの職場で女性の多い職場だった。

 

 さて、夜の高校のほうはどうだったろう。

 会社を午後5時に終わり、都電に乗って板橋駅前の高校に到着すると、どうしても5時45分ぐらいにはなってしまった。授業の始まりは5時30分からだから、いつも遅刻になってしまう。しかし、それは勤務先の事情なので認められていたようだ。授業の終了は午後9時だった、家に帰ると10時近くになっていた。たいていはそれから夕食だ、冷たくなったご飯を食べていた。

 2時限目の6時30分ごろに睡魔が襲ってくる。とにかく眠くなる、それを乗り越えると後は大丈夫だった。1日は4時限だった、だから昼間の高校より1年長い4年間通うことになる。なんとか1年間は中学の延長のようにまじめに通った、しかし通ったというだけで勉強はほとんどやらなかった、授業の内容もほとんど頭に入っていなかった。目標をうしなったようであった、中学の後半は高校に入るためという、とりあえずの目標があったが、それがなくなり、ただ学校に通うだけという生活になっていた。

 

 そして2年になって、友達もだいぶできてきた。小林純一、金子良則、小室東庫、加川敏、鷺谷、緒方たちだった。とくに小林とは仲良くさせてもらった、彼は新聞配達の出張所のようなところを任されていたようだった、清水町にある店によくよったことがある。

 小室とはお互いに悪友同士だった。ある時、女子と仲良くするにはどうすればよいか、と話し合っていたが、どちらが言い出したかわからないが「演劇部に入らないか」ということになった。演劇部に入れば女子の友達がすぐできると、単純に考えていたようだ。

 いずれにしても不純な動機で二人とも演劇部に入部することになった。ところが入部するとセリフを読む練習とか、大きな声を出す練習とかで女子の友達どころではなかった、とにかく授業の終わる9時からの練習である、10時ぐらいまでは練習したのだと思う。

 入部してから少しばかりの間、こんなはずではなかったがと、おもうこともあったが、入部した以上もうやるしかないと観念したのだろう、ここから演劇にのめりこんでいくことになる。

 私の初出演は秋の文化祭のときだった。劇の題名は忘れたが、私は教室でタバコを吸うような不良学生の役だった。学校の大講堂でおこなわれるが、舞台のついた大きな講堂だった。舞台での練習は主に大きな声を出す練習だった、部員や先生が舞台からもっとも離れた客席の隅っこに立ち出演するものの声を聞く、そこで声が聞こえなければもっと大きな声を出せと合図がでる。

 それはそうだ、一番後ろの客席にもセリフがはっきりと聞こえなければ意味がない。演技なんて二の次だった、とにかく大きな声でなければダメだった。もちろんマイクやスピーカーはまったくないのだから。

 舞台に立つ直前までは、セリフを忘れたりしないだろうか、とか心臓がバクバクだったが、舞台に立ってしまった後は意外と度胸がすわったのか、大胆に不良学生の役も演じられたようだった。

 

 文化祭後の級友たちの意見もおおむね好評だった。みんな以外だったようだ、私のようなおとなしく、どっちかといえば内気な性格のものが大胆な役を無難にこなしたことに、少しは驚きの目を向けていた。ちょっとだけ私は得意げであった、とくに仲の良かった小林に「おまえ、すごく良かったよ」と言われたことが、一番うれしかった。

 こうして私はさらに演劇にのめり込んでいったのである。

 次の公演の出し物は、時代劇風であった、これも題名は覚えていないが貧しい漁村の家族の物語だったような覚えがある。私は少年役だった、3幕あって舞台道具の準備も大変だった、公演の間じかになると道具役、出演者などといっていられない、全員で舞台道具の準備だ。徹夜もした、これもまた楽しい思い出だ。夜中に学校の塀を乗り越えて脱出し、何人かとバーに飲みにいったことがあった、カウンター席だけのトリスバーだ。飲むのは、ハイボールだった、ウイスキーを炭酸水で割ったものだ、おいしいなどとは思わなかった、ジュースより高いのだ、なんでこんな高いものをみんな飲むのだろうと、不思議におもったときがあった。

 学校に戻るとまた大道具つくりに追われた、疲れて仮眠をとるときは舞台の幕を外して、それにくるまり暖をとった、たぶん寒い時だったのだろう。

 公演の時を迎えた、やはり心臓はバクバクしていた。でも舞台に立ってしまえば、けっこう平気でセリフをしゃべれたと思っている。しかし、このときは全員が大失敗を演じてしまった。幕は3幕あったのだが、誰がどう間違えたのか1幕から2幕に移る時に、大道具の担当が3幕目の舞台をセットしてしまったのだ。それを誰も気づかず、出演者も舞台装置が3幕目のものになっていたので、3幕目のセリフから入っていった。3幕目が終わり公演は終演した。どうもおかしいと気が付いたのは、時間が早かったからだ、2幕目の舞台装置が残っている。これでみんなが2幕目を抜かしたことに気が付いた、ときすでに遅しである。

 観客はというと全然気づいた様子もなく、とくに違和感もなかったようである。とにかく一安心である、このことは口裏を合わせたわけではないが、全員が他言しなかったようである。その後、全然話題にもならなかったからである。みんな自分たちの恥じを他言できなかったのであろう、私も同様だった。後日、脚本をじっくりと読んでみて、気が付いた、2幕を除いてもストーリーとしては何とかつじつまがあうのである、これで観ている側も気がつかなかったのだと、妙に感心した。

 

 3年生の時だったろうか、悪友の小室と二人っきりで演じた劇があった。これだけは題名をよく覚えている、「ある死神の話し」という、ある自殺志願の学生が鉄道自殺を企て、それを死神が阻止しようとする物語だった。小室が自殺志願の学生、私が死神を演じた。

 私は、いかに死神らしく見えるようにするか、真っ白なコフンや青顔料を顔に塗ったりして、いかにそれらしくするか小道具の担当と相談しあって決めていた。

 また、音楽は私が担当した、いかに恐ろしさを出すか音楽効果も重要な要素だったので、いろいろ聞きあさったが、最終的にムソログスキーの「禿山の一夜」に独断で決めた。

 この頃からか、音楽にも関心をもっていたからだろうか。

 この時は、二本立てで公演をおこなった。「ある死神の話し」ともう一本は、有名な小山内薫の「息子」だった。時代劇で火の用心の番屋が舞台である、じいさんが一人番屋のいろりにいる、そこにおかっ引に追われている若者が入ってくる、じいさんと一瞬顔を見詰め合うが世間話しをしだす。実際にはこの若者は何年か前にこのじいさんに勘当されて、でていった息子なのだが、ふたりともそんなことは、おくびにも出さない。そこにおかっ引の笛の音が聞こえ、追っ手が迫っているのをさとり、若者は出て行く。というストーリーだった。私も、このじいさん役をやりたかった。この劇の出演者は3人だった、3人とも名演技だった。とくにじいさん役はよかった、高橋征郎だった。彼は演劇に対する考え方が我々とはちょっと違っていた。演技にたいしても、我々は「その程度でいいんじゃない、楽しくできればそれでいいんだよ」といっても彼は妥協しなかった。しかし、彼の演技を観ているとやはり感心させられた、自分には彼のような演技というか、考え方はできないと思っていた。

 高校を卒業して何年かして、彼が俳優座で新劇をやっているという話しを聞き、なるほどと思った、高校の時からそのつもりで勉強していたのである、我々のように遊びではなかったのだ。若者役は鈴木実といい、おかっ引役は1年先輩の松本という人だった。

 

 演劇部には、女生徒と仲良くなりたい、というのが動機だったが、それがどこかに行ってしまった感があるようだ。ほとんど勉強そっちのけで演劇にのめり込んでいた。

 だから、進級もすれすれでやっとだったような気がする。

 後になって気が付いたことだが、高校で演劇をやったことが、動機が不純はともかくとして自分の性格形成に大きな影響を及ぼしたのは確かなようだ。引っ込み思案な性格が、少しは人前に出てしゃべれるようになってきたようだ。

<青年期T―3>に続く

青年期1−3へ

inserted by FC2 system