佐々木 「綱造」と「典」のこと
2010・5・3記す 
「佐々木家系図」 、合わせてご覧ください!
「昭和37年の戸籍謄本」、合わせてご覧ください!

「綱造」は、私の曽祖父ということになる。綱造までは武士だったようで、明治維新の武士廃止となり、南部藩
<後の盛岡藩>に所属していたらしいが、当時の藩主「南部利恭」<としゆき>が私財をなげうって、北上川、
雫石川の河川敷を買い取り「桑田」、桑畑を廃業した武士たちに養蚕のための桑栽培をさせて生計をたもとうとし
たそうである。

それに参加した武士たちは、1732名だったという。そして、その土地がいまだに残っていて「旧盛岡藩士桑田」を
設立して貸し土地、駐車場等で収益を上げていて、今に引き継いでいるのである。

佐々木家の墓は、盛岡市の「本誓寺」<ほんせいじ>にあった。
そこの古い墓石に先祖の名前が記されていた。この寺を訪れたのは、父・肇とで昭和50年頃だったろうか、軽
自動車<ライフ>で東京・保谷市の父の家から二人で出かけたのである。当時は、東北高速道は「須賀川IC」ま
でで、その先は国道4号線で盛岡まで行ったのである。

そして、祖母・カメの弟である「鎌田耕一」宅に一泊させてもらい、次の日に本誓寺を訪ねたのである。
その後、父・肇が所沢市荒畑の「多摩湖霊園」に移して、現在では、全ての先祖の遺骨が移されている。
「典」は、私の祖父で、私が生まれた時には、すでに故人となっていた。陸軍中尉の軍人だったという。
その後は、青森県七戸町で「果樹園」<りんご>を営んでいたそうだ。

「旧盛岡藩士桑田」・1732名、当時の名簿の一部である
「佐々木綱造」の文字と押印が認められる。
07年6月関東支部総会の時に「桑田」の職員が持参してきて
くれたものである。
津軽書房から刊行された、小田原金一著「雪中行軍始末」と
して、八甲田山遭難救助の模様が記されている。
この書籍は、08年5月、いわき市在住の「鎌田純一」さんの
所有されているものを写させてもらったものである。
上記「雪中行軍始末」の中に、八甲田山遭難救助隊の指揮官
の一人として指揮をとった内容が記されている。

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