母との思い出
2015・11・11
 私は母に抱かれた記憶がない。私を産んで間もなく肺結核に侵されたからであろう。
母は栃木県茂木町から東京に単身で出てきた。23歳ぐらいだった。父は青森県七戸町
から同じく単身で東京に出てきて、母と知り合ったらしい。
 そして昭和12年頃結婚して、13年に私は長男として生まれた。父には青森から呼んだ
母にとっては姑や小姑が6人いたのである。私は大勢の家族に囲まれ、可愛がられちやほや
されていたようである。
 その後間もなく父は出征した。母は私の祖母や叔父叔母の力を借りながらであろう、私を
育ててくれた。
 それから数年して、父はマニラの激戦地で負傷して内地へ戻ってきた。それからは、我々
親子3人は、東京大崎の二階建借家で生活していた。
 私と父母三人は二階で、祖母や叔父叔母は階下で寝ていたようである。その頃は母の結核
は進行していたようで、私はいつも父と寝ていた。しかし、父のタバコ臭さや髭の痛さが嫌で
あった。ある夜、私は夜中に目を覚ました。いつものように父からはタバコの臭いが、私は脱出を
企てた。父の布団から母の布団に行こうとしたのである。ハイハイをしてゆっくりと母の布団に移ろ
うとした。ところがである、この脱出劇は失敗に終わった。父と母の布団の間にあったスタンドを
倒してしまったのである。バタンとでも音がしたのであろう、父母は同時に目を覚ましたようである。
私が寝ぼけたとでもおもったのであろう、父が私を自分の中に戻したのである。
 次の朝、父母から何らかの話があることを期待したが何もなかった、私は母と寝たいと訴えた
かったのだが。
 それからいくばくかの日が経ち、私と母は二人で母の実家近くに住むことになる。何故だか理由
はわからなかったが、母と二人の生活は楽しかったようだ。母の実家の裏にあるお寺の隣の
小さな家を借りたのである。寝るときは母と私の布団は別々であったようだ。私の布団は小さい
子供用だったと思う。そして、ある朝私はおねしょをしてしまった。私は時々おねしょをしていたよう
なのであるが、この時はとても素直な気持ちで母に「おかあさん、ごめんなさい!」とあやまった。
私はてっきり怒られることを覚悟していた。しかし、母はにっこりと微笑んで「いいんだよ、たけし」
と言ってくれた。この時の母の笑顔が今でも忘れられない。今思うと母と二人での生活は母の
病気療養のために家族と離れて、空気の良い田舎での生活を皆で話し合って決断したのかもしれ
ない。
 それから、こんなエピソードも記憶にある。父の妹が我々母子の家にやってきた時のことである。
 我が家のすぐそばに何軒かで共同で使用する井戸があった。ツルベ式の井戸である。竹竿の先に
桶がくくり付けてあって、その竹竿を井戸の底に落としてしまったのである。
 これは大変だということになった。この時母はどうしていたのであろうか、私の記憶にはない。ただ
ただ、叔母がうろたえるところだけしかわからない。多分、近所の人たちが助けてくれたのであろう。
 しかし、こんなツルベ式井戸を知っている私は年代的にも凄い経験をしてきたと思っている。
 さて、話は変わって戦争が激しくなってきたからだろう、私とおねえちゃんの二人が母の実家茂木
に疎開することになった。おねえちゃんと呼んでいたが、父の一番下の妹で私より6才上だった。
 昭和二十年のことで私は小学二年生、茂木小学校に通っていた。そして夏休みに入ろうとしている
7月初めに、一通の電報が舞い込んだ。「ハハキトクスグカエレ」という内容だったと後で知った。でも
切符が手に入らない、やっとの思いで踏切番の方に頼んで手に入れ、母の弟の叔父と一緒に東京
に向った。列車は貨物車だった、天蓋車という屋根はあったが開閉式の扉はなく、丸太が渡してある
だけであった。東京板橋の家に着いた。母のいるはずの四畳半の部屋には蚊帳が吊ってあった。
「おかあさんは何処にいるの?」と聞いたと思う。「ここの中だよ」と壺のようなものを指さした。
そんなところにおかあさんが入れるはずがないと思った。「おかあさんは死んだんだよ!」とも言われ
たと思う。でも、私は死ということを理解できていなかったと思える。後になって、着物姿の小柄な人の
後ろ姿を見ると、母ではないかと思い正面に回って、違ったと残念に思う時がしばしばあった。
 そんな母の八十年前の昭和九年の日記が入手でき、今読んでいる。母のやさしい面だけが記憶に
ある。感無量である。


 上記の文章は、私が現在「自分史講座」を受講していて、第二回目の「課題添削文」なのです。
 原稿用紙五枚分、2000文字以内が条件なのです。もっと書きたいことはあるのですが、ぎりぎり
五枚になんとかまとめました。
 実際には、「今までで一番の思い出」ということで課題を選ぶことでした。「初恋の思い出」にしようか
「母との・・」にしようかと迷いましたが、80年前の母の日記を入手して、それを読んでいるうちに
「母との思い出」にしようと決心しました。
上記のような条件をクリアーした、私の傑作だと思っています。

 以下に、そのことに関連した写真を掲載します。

父、出征の時。親族が集まり撮ったもの
私は、母に抱かれている
昭和13年である
中央一番小さい女の子が、おねえちゃん
と呼んでいた、父の一番下の妹で私には
叔母である
親子、三人。父出征前のときとおもわれる
上の写真と帽子が同じに見える、母の着物も父の背広も
同じだろう
    私の一番好きな写真!二人の笑顔がとてもよい!
左は、同じ日に撮ったのであろう
父が撮ったとおもう、このころ戦地で負傷し帰ってきた
頃だろう。父は、写真が好きで自分で現像・焼き付けを
やっていたから
 




母と祖父、昭和9年頃
栃木県茂木町、母の実家
                      従兄弟の修一とヤギに乗って、
                      疎開していた頃、母の実家 昭和20年
                     

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